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思春期の全能感、あるいは21世紀の偉大なる小市民——米澤穂信論のための覚書 - 宇宙、日本、練馬
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思春期の全能感、あるいは21世紀の偉大なる小市民——米澤穂信論のための覚書 - 宇宙、日本、練馬
先日、米澤穂信の〈小市民〉シリーズの新刊、『巴里マカロンの謎』が刊行されました。めでたいことです... 先日、米澤穂信の〈小市民〉シリーズの新刊、『巴里マカロンの謎』が刊行されました。めでたいことです。以下、それにかかわることを書き留めておきます。 米澤穂信は、かつて笠井潔と行った対談の中で、デビュー作の『氷菓』で書きたかったことは「思春期の全能感」だったと述べている*1。 「思春期の全能感」。それは『氷菓』から始まる〈古典部〉シリーズで演じられる、ある種の特別さをめぐるゲームを読み解く際の補助線になるだろう。〈古典部〉シリーズにおけるキャラクターをおおよそ二つに分類するとしたら、この「思春期の全能感」への意識と態度で大きく分けてもよいかもしれない。 「思春期の全能感」に酔い、自身は物事のありようを正しくとらえており、自身の介入によって物事を適切な仕方で解決することができると無意識的に信じているタイプ。これは『愚者のエンドロール』における羽場ら「脚本家」たち、あるいは『クドリャフカの順番』の