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<城、その「美しさ」の背景>第72回 臼杵城 あまりに惜しい失われた島城の景観
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<城、その「美しさ」の背景>第72回 臼杵城 あまりに惜しい失われた島城の景観
三方が海に囲まれた断崖絶壁の島城 前回、府内城(大分市)を取り上げた際、日本には海に浮かぶ名城が数... 三方が海に囲まれた断崖絶壁の島城 前回、府内城(大分市)を取り上げた際、日本には海に浮かぶ名城が数多くあったのに、そのほとんどは周囲が安易に埋め立てられてしまって残念だ、と書いた。臼杵城(大分県臼杵市)もそうした例の典型である。この城は臼杵川の河口近く、臼杵湾に浮かぶ東西約420メートル、南北約100メートルの丹生島の上に築かれ、北、東、南の三方が海に囲まれた断崖絶壁という天然の要害だった。 府内から臼杵に拠点を移したのは、鎌倉時代から続く名門、大友家の21代でキリシタン大名としても知られた大友宗麟だった。イエズス会の司祭、ガスパル・ビレラは、謀反を起こした家臣たちから逃れるために宗麟が「城のごとき島」へ移ったと記している。ルイス・フロイスの記録によれば、その後、臼杵は府内に次ぐキリスト教布教の拠点となり、城内には礼拝堂も建てられたという。 二の丸の入口である大門櫓は木造で推定復元された