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今まで言わなかったけど、中島敦『山月記』の漢詩に出て来る「長嘯」は、「詩を吟じる」って意味じゃないんだ 齋藤希史『漢文スタイル』(後編) - もちつけblog・はてなブログ版(仮)
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またも、齋藤希史『漢文スタイル』 を読む。 漢文スタイル 作者: 齋藤希史出版社/メーカー: 羽鳥書店発... またも、齋藤希史『漢文スタイル』 を読む。 漢文スタイル 作者: 齋藤希史出版社/メーカー: 羽鳥書店発売日: 2010/04/13メディア: 単行本 クリック: 32回この商品を含むブログ (10件) を見る 著者曰く、今の時代に必要なのって、韓愈じゃなくて、焚紹述樊紹述かも、と(119頁)。 どういうことか。 今の「国語」の衰退をめぐる議論は、近代の「国語」以前の型の集積を訴えたりはする(『声に出して読みたい日本語』とか)けど、結局、その型へ反発する力というのは養われない。 (型を養うこと自体が不必要なわけでは、もちろんない。) 文章って、書けば書くほど、何かか言い切れないようなものが残ってしまうもの。 そういう言い切れなさの中から、それに立ち向かう初発のエネルギーが出て、新しい表現が生まれる。 韓愈は、その初発のエネルギーを古の文章に感じて、道を開いた(彼は、単なる"いにしえの文章オ
2015/10/03 リンク