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山口移鎮 - Wikipedia
山口移鎮(やまぐちいちん)は、幕末の長州藩(萩藩)が、藩庁となる居城を萩(萩城)から山口(山口城... 山口移鎮(やまぐちいちん)は、幕末の長州藩(萩藩)が、藩庁となる居城を萩(萩城)から山口(山口城)へ移転したできごと。 概要[編集] 萩は、慶長9年(1604年)の毛利輝元入城から259年(萩城築城からは254年)に渡り藩庁が置かれ人口4万人以上を抱える西日本有数の城下町として発展していた。しかし、攘夷の決行に際して外国船による艦砲射撃に弱い萩[1]から、南北に海を抱える領内(周防国・長門国)の統制がとりやすい[2][3]内陸の山口へ藩庁を移鎮することが検討され、先ず湯治を理由に藩主毛利敬親が山口中河原御茶屋に滞在する[2]という建前をとりつつ藩庁の建設地を選定し[4]、最終的に鴻ノ峰が選ばれ、文久3年(1863年)7月20日に山口移鎮が発表された。 なお、関ヶ原の戦いに敗れて広島城を失った輝元が、新たな居城を萩に設けたのは江戸幕府の指示による。これについて、毛利氏は山口を本命の築城候補地