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自己啓発としての短歌 - リリカルはなくそオーガスタ
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自己啓発としての短歌 - リリカルはなくそオーガスタ
あなたはわたしを読んでいるが、果たして、わたしの言語を理解しているという確信があるだろうか? J.L.... あなたはわたしを読んでいるが、果たして、わたしの言語を理解しているという確信があるだろうか? J.L.ボルヘス「バベルの図書館」より はじめに本論は、短歌における「私性」について考える文章である。しかし、残念ながら(?)本論はいわゆる「短歌評論」ではない。 「私性の文学」などと呼ばれる短歌は(よくも悪くも)事実として、作品を通じた自己表現を主眼としている。営みとしての短歌の主だった目的は、たとえば、巧みな表現を行うための技術の向上という点――そのような自己表現を担いうる〈私〉の実現を目指す、ある種の「自己づくり」にあると言ってよい。 「自己づくり」において重要なことは、その都度ごとに自己を演じることではなく、そうして演じられることが〈私〉の言葉としていわば「板につく」までの過程にほかならない。一般向けの書籍における紹介としては、小野田(2021)が引用している、平野啓一郎の「分人」というア