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徳川家康日課念仏(常楽寺)| 上田市の文化財
天下を統一し江戸に幕府を開いた徳川家康は、大阪夏の陣の翌年、元和二年(一六一六)七十五歳で没してい... 天下を統一し江戸に幕府を開いた徳川家康は、大阪夏の陣の翌年、元和二年(一六一六)七十五歳で没しています。 家康に信頼の厚かった僧、天海(天台宗の僧・東叡山寛永寺の開山)は、晩年になった家康に対し、「いくたびかの戦で殺戮〔さつりく〕がくり返され、罪なき人々のたくさんの命が奪われている。自分の死後、極楽往生を願うならば、その滅罪の祈りをこめて写経することだ」とすすめたという話が伝えられています。史実かどうかは不明ですが、家康は晩年になり、自分の死後について、揺れ動く心を天海に打ち明けたためでしょうか。 常楽寺に伝わる家康の「日課念仏」は、署名の「慶長十七年六月九日家康」の日付けから、家康が死去する四年前の七十一歳のときに書かれたものであることがわかります。このことから、天海が家康に対し、滅罪のために写経することをすすめたという話は、単なる言い伝えではなく、史実にもとづく話であったのかもしれませ