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(雑文)日本語の詩でなぜ韻が重視されないのか|印度林檎之介@小説
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(雑文)日本語の詩でなぜ韻が重視されないのか|印度林檎之介@小説
ぱっと書いてみてます。 まだ研究中の分野で随時変更あり。 私的研究の範疇だが大きくまちがっていない... ぱっと書いてみてます。 まだ研究中の分野で随時変更あり。 私的研究の範疇だが大きくまちがっていないだろうと思う。 (だから書いてんだろ? ってか) 外国の詩って語尾に韻を踏んだりしますね。 ところが、日本語の詩っていうのは和歌だの俳句だの文字数を重視するわけです。 なんででしょう? 重要:この文は近代までの日本の詩歌、を念頭に書いてます。 いわゆる日本のラップ文化などを否定するものではありません。 拙者の考えでは 主に下記、日本語特有の二つの要素が効いていると思います。 まず、日本語っていうのは世界でもまれな発音数の少ない言語です。 補足)ここでの「発音数」は「音節」の意です。 おかげで表音文字で表すのに発音を一文字づつにわりあてても50文字くらいですんじゃうんです。 (一方、英語とか他言語は発音数が多くてそんな芸当できないから2文字、3文字で1音表すわけです) 次に、これが大きいが日本語