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消えた遊廓・赤線跡をゆく-丹波篠山(京口新地)編 - 昭和考古学とブログエッセイの旅
※注意※ このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古... ※注意※ このブログ記事は、2009年に前ブログにて書いた記事をやっつけ仕事で編集したものです。情報が古いのと、文章が拙い場合があるのであしからず。また、予告なしに文章が変わることもあります。 今回は、丹波篠山にあったという遊郭跡を書いてみようと思います。 丹波篠山というと今の篠山市、江戸時代は譜代の青山氏の城下町として栄えました。 今回の話題とは関係ないですが、東京にある地名の「青山」(←青山学院大学の「青山」ね)は、この青山氏の江戸屋敷があったことから名付けられました。 篠山の青山氏は分家筋だった記憶がありますが、まあそんなわけです…どんなわけや。 篠山の遊廓の歴史 今の篠山市は、武家屋敷が現在でも残る観光の町で、今は歓楽街とは無縁のせいか、遊廊とか赤線ってイメージが全く思い浮かばないですが、その昔、確かに遊郭は存在していました。 明治41年(1908)、篠山に歩兵第七十連隊が置かれま
2019/02/26 リンク