エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
統計学と生権力――≪足し合わせの暴力≫について - Men talking over coffee with smoking Ark Royal.
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
統計学と生権力――≪足し合わせの暴力≫について - Men talking over coffee with smoking Ark Royal.
自殺とは、ある人の究極の行動の1つである。それにも関わらず、集計された自殺者数は毎年似たパターンに... 自殺とは、ある人の究極の行動の1つである。それにも関わらず、集計された自殺者数は毎年似たパターンに従う。これはなぜか。 私はここに数値化の暴力(数え上げの暴力)のさらに背後に潜む≪足し合わせの暴力≫の存在を主張したい。これを考えるために、統計そして統計学とはなにかという根本問題から話を始めたい。 平均値は現象の世界の概念であり、期待値はイデア界の概念である 平均という概念は数え上げenumerationによって生まれた(※ 詳細はイアン・ハッキング著『偶然を飼いならす』木鐸社、1999年にある)。平均は現在観察可能な数値の要約でしかないのに対し、期待値は観察不可能な理想的なもので、イデア界に存する。サイコロの期待値は3.5だが、何度サイコロを振ってもその平均は3.5に漸近できるが、3.5には到達し得ない。同様に、「サイコロの目の1が出る確率は1/6」ということは観察可能な現象からは到達でき