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「徳川四天王」家の幕末~そのとき、名将たちの子孫はどう動いたか【にっぽん歴史夜話13】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2
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榊原康政~越後高田藩の場合 榊原康政(1548~1606)は本多忠勝と同年の生まれである。名前の一字は主君... 榊原康政~越後高田藩の場合 榊原康政(1548~1606)は本多忠勝と同年の生まれである。名前の一字は主君・家康から拝領したもの。忠勝同様、生粋の武人というべきで、姉川、三方ヶ原、小牧長久手など、名だたる戦場で武功をあげた。人柄については、次のようなエピソードが残っている。家康の長男・信康ははげしい気性の持ち主だったが、あるとき康政の諫言に激怒して弓矢を向けた。が、当の康政は「ご存分になされませ」と言っていささかも動じず、信康もついに折れて、その言葉を聞きいれたという。 榊原家は館林(群馬県)で10万石を与えられたが、数回の転封と加増をかさね、姫路(兵庫県)15万石の領主となる。が、寛保元(1741)年、藩主・政岑(まさみね)が吉原での放蕩を幕府に咎められ隠居、越後高田(新潟県)に移されてしまう。実際は、8代将軍吉宗に抗して尾張藩主・徳川宗春とよしみを通じたためともいわれるが、いずれにせよ