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「差別される側」として生きる痛み ―それは「心の問題」ではない - 宇樹義子公式サイト
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「差別される側」として生きる痛み ―それは「心の問題」ではない - 宇樹義子公式サイト
発達障害の診断を受けてから10年以上になる。 この10年ほどの間で痛感させられてきたことがある。それは... 発達障害の診断を受けてから10年以上になる。 この10年ほどの間で痛感させられてきたことがある。それは、「当事者と支援者・専門家との間は常に『当事者性の有無』によって隔てられている」ということだ。 発達障害は「差別される側」として生まれつく 誰かが発達障害者であることは、その人が発達障害者として生まれついたことを意味する。彼らは生まれたときから発達障害だ。療育やらSSTやら服薬やら、さまざまなケアで乗り切りがうまくなることはあるだろう。しかし、たとえ乗り切りが最大限うまくなっても彼らは、発達障害者であることからは基本的に死ぬまで降りられない。 それは、彼らが生まれてから死ぬまで、何をどのように努力しても願っても、「差別される側」であることからは(彼らの生きている間に医療の飛躍的な発展でもない限り)降りられない、ということを示している。 発達障害者は「差別される側」として生まれつくのだ。 そ