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第4部 第1回 音速への挑戦|第4部:時代を駆ける|名城大学物語|名城大学
入学当時の思い出を語る山田さん 理工学部長、学長も務めた小澤教授 農学部のあった鷹来キャンパスでの... 入学当時の思い出を語る山田さん 理工学部長、学長も務めた小澤教授 農学部のあった鷹来キャンパスでの実験を見守る学生たち(1965年8月26日) 愛知県刈谷市の自動車部品メーカー「日本テクニカ」社長の山田伸雄さん(1973年理工学部交通機械学科卒)が、名城大学受験を決めたのは、新聞、テレビ、少年雑誌などでも次々に紹介された名城大学の小澤久之亟教授が推進する「音速滑走体」へのあこがれからでした。「音速滑走体は受験雑誌の表紙でも紹介され、何としても小澤先生のいる名城大学の交通機械学科に入ろうと思いました」。山田さんは45年以上も前の受験生時代をそう振り返ります。 小澤教授は戦時中、三菱重工名古屋航空機製作所の航空技術者として重爆撃機「飛龍」を設計しました。しかし、戦後、連合軍総司令部(GHQ)の指令で日本では航空機の生産は全面的に禁止され、新しい時代での飛行機設計の夢を断たれました。 小澤教授は
2015/05/01 リンク