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おみそ汁
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みなさん、こんにちは。なんだかんだありまして愚陀仏庵の話が中断したままです。もし興味持ってくださっている方がいらしたら申し訳ないです。また書きます。 9月19日は正岡子規の命日「糸瓜忌」です。子規が亡くなったのは明治35(1902)年。20代で結核を患い、脊椎カリエスを併発し、晩年は寝たきりの生活を余儀なくされた子規はこの日、34歳と11カ月の人生の幕を閉じました。 俳句、短歌etc…多彩な業績でも、子規はその短い人生とは裏腹に膨大で多彩な仕事をしました。俳句や短歌の革新、写生文の提唱などなど。写生の概念を知ってからは、子供の時から愛してやまなかった草花や果物などを題材に絵も描きました。 書くこと、描くことが大好き、食べることも大好き。小さい頃は泣き虫だったのに、いつの間にか大将気質の自信家に成長して野球に熱中した子規。仲間と遊ぶこと、議論すること、共に創ること。耐えず人とのつながりを求め
伊勢土産として有名な赤福餅。つい先日、包装紙に100年以上に渡って使われてきた正岡子規の「到来の赤福もちや伊勢の春」という俳句に裏付け資料がないと指摘され、店が情報提供を呼びかけているとの報道がありました。 朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/ASK8S777MK8SPFIB00M.html 気になったので愚陀仏庵の話はお休みして、子規が赤福の句を詠んだのかどうか考えてみました。 赤福では1911(明治44)年から子規の俳句に使っていて「1900(明治33)年、門弟の山本勾玉から赤福餅を土産に受け取った子規が、ありし日の伊勢参りを懐かしんでこの句を詠んだ――。そんなエピソードが創業家で語り継がれ、赤福のホームページでも紹介」していながら、肝心の俳句が子規の作品だとする資料がどこにもないことが分かったというお話です。 「餅買ひにやりけり春の伊勢旅籠」
前回に続いて愚陀仏庵のお話です。正岡子規と夏目漱石が同居生活を送った愚陀仏庵は松山の中心部二番町というところにありました。建物そのものは太平洋戦争中に消失しています。旧松山藩主久松家の別荘萬翠荘(松山市一番町、坂の上の雲ミュージアムの近く)の敷地内に復元されていた愚陀仏庵は2010年に土砂崩れで全壊してしまいました。再建しようという話も持ち上がっていますが、どうなっているかはよく分からないです。元々愚陀仏庵があった場所は駐車場になっています。 漱石は明治28(1895)年4月に帝大卒の英語教師として松山中学に赴任。旧松山藩士上野義方宅の離れ(愚陀仏庵)で下宿を始めたのは6月下旬でした。当時の漱石の月給は校長の60円を上回る80円。子規の月給はMAXが40円でした。 俳句を作り始めようと思っているところだ子規の帰郷は8月25日。いったん叔父の大原恒徳の家に腰を落ち着けます。彼の帰郷を待ってい
みなさん、こんにちは。いつもご訪問ありがとうございます。今日は8月29日。正岡子規と夏目漱石が松山の愚陀仏庵で同居生活を始めて3日目に当たります。 2人が共に過ごしたのは明治28(1895)年です。27日にツイッターで呟いた通り、そのことに気づいていたのですが、書きそびれてしまって文体診断の話を書いてみたら「そういう話はいらない」と、お叱りを受けてしまいました。「たまに脱線するのは許してよ」という気持ちもありますが、こんな弱小ブログを熱心に読んでくださる方の存在は本当にありがたいこと。改めて愚陀仏庵の話を書いてみようと思い立った次第です。前置きが長くなりましたが、しばらく愚陀仏庵シリーズを続けてみますのでよろしくお願いします。 矢も楯もたまらず従軍子規が、松山に帰ったのは明治28年8月25日。何で帰ったか。体を悪くしたからです。一時は命も危ぶまれるほどでした。何でそんな目に?無茶をしたんで
「文体診断ロゴーン」を御存知でしょうか。文章を入力すると、名文の中から似た文体を探し出して、どの作家や著名人の文章と似ているかを教えてくれるツールです。文章の読みやすさなども診断してくれます。最近知ったのですが、面白そうですよね。 子規本人の文章でテスト文章診断。本人の文章だったらどうなるのか。試しに正岡子規の文章を入力してみました。 まずは「墨汁一滴」から好きな文章をピックアップ。 ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。 結果は… 井上靖?福沢諭吉?年代もバラバラだ。あれ、おかしいな。一致指数も低い。今度は少し長めの文章にしてみました。 或る絵具と或る絵具とを合せて草花を画く、それでもまだ思ふやうな色が出ないとまた他の絵具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづつの色の違ひで趣が違つて来る。いろい
開成が2連覇8月19、20日の両日、松山で開かれた20回目の俳句甲子園は、開成高校の2年連続10度目の優勝で幕を閉じました。ネット動画などで一部を久しぶりに観戦しただけですが、面白かったです。 開成高校おめでとうございます。同校の岩田奎選手の作品「旅いつも雲に抜かれて大花野」は最優秀にも選ばれました。ディベートでも大活躍だった彼。表彰式で涙を浮かべている姿がとても爽やかでした。 「開成は言葉余りて心足らず。幸田は心余りて言葉足らず」。高橋睦郎氏が決勝戦の講評でこういう趣旨の発言をされていました。確かに見ていると開成が何もかも達者すぎて、そのような印象を与えられそうになりましたが、きっとメンバーはあふれんばかりの作品や俳句というものへの思いを舞台の上では極力抑えて冷静に振る舞っていたのでしょうね。表彰式の岩田選手を見て私の印象は一瞬で改められました。 1チーム5人で対戦さて俳句甲子園は199
美術の概念を文学に子規の俳句と言えば「写生」のイメージが強いですね。子規の写生論は美術の概念を取り入れたものです。子規が西洋美術の写生、いわゆるスケッチの概念を知ったのは明治27(1894)年。知人の画家中村不折に教わりました。 写生散歩子規は、この年の秋の終わりから冬の初めにかけて、手帳と鉛筆を持って毎日のように根岸郊外を散歩し、句想を得ては手帳に書き付けました。当時のことをこう振り返っています。 「写生的の妙味は此時に始めてわかつた様な心持ちがして毎日得る所の十句二十句位な獲物は平凡な句が多いけれども何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた」(獺祭書屋俳句帖上巻) 写生と俳句の相性の良さを実感した子規は、この概念を核の一つとして俳句革新につなげていきました。俳句で写生の有用性を確認した子規は短歌や文章にも写生の概念を持ち込み、それぞれの近代化を押し進めたのでした。
夏の全国高校野球は8日に延期になりましたが、正岡子規とベースボールの続きです。野球の普及に対する子規の貢献と言えば、用語の翻訳やルールの紹介をしたこと点が挙げられます。2002年に野球殿堂入りしたことで詳しく知った方も多いのではないかと思います。 母校の快挙に発奮前回書いたように学生時代にベースボールに打ち込んだ子規は明治23年に一高を卒業、帝大に進みましたが26年3月に中退。新聞「日本」の記者になりました(出社は前年末から)。随筆「松羅玉液」(題名は愛用の墨にちなむ)で野球を取り上げたのは明治29年7月。記者の仕事や俳句革新に没頭する中で、野球に目を向けたのは母校の球史に残る活躍がきっかけでした。 坂上康博著「にっぽん野球の系譜学」(青弓社)によると、この年5月23日、一高野球部は横浜のアメリカ人チームとの国際試合に臨み、29対4という大差で勝利。この歴史的快挙は新聞や電報を通じて全国に
夏の甲子園開幕があさってに迫りました。今年も球児の熱い夏が始まりますね。さて正岡子規と言えば野球。よく御存知の方も多いと思いますが、子規を語るには避けて通れないテーマですのでお付き合いください。まずは野球に熱中した子規について書いてみました 日本に野球が伝わったのは子規が数えで5歳の明治4年(1871)年。米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成予科で教えたのが始まりとされています。開成予科は後の大学予備門、第一高等中学校の前身で、子規も予備門・一高時代に野球を知りました。年譜や友人の回想などによると明治18~19年のことだったようです。 室内でドタバタ子規と同年生まれで「ほとゝぎす」を創刊した柳原極堂の「友人子規」には次のような一節があります。 学校から帰つて来ると室内を騒ぎ回り、或は手を挙げて高く飛んだり、又は手をさげて低く体を落すなど、いろいろの格好をするので、升さん君は何のまねをするの
不正防止のため一冊一冊に押印これは、明治時代に近代的な出版制度が整えられていく過程で出来たシステムで、出来上がった本の著者が制作部数を確認するために用紙に印を押し、用紙を貼り付けていました。出版社が著者と取り決めた以上の部数を発行して不正に利益を得ることを防ぐためのものでした。当時の地方では東京などで発行された書籍をコピーした廉価な海賊版が出回ることもあったようで、検印は正規に発行された本の証明でもありました。海賊版はよく売れたらしく、面倒な作業であっても不正販売への対抗措置として必要とみなされていたようです。 とはいえ著者にとっては大変な作業です。建前では著者本人が印を押すことになっていましたが、当然、家族も手伝ったでしょう。出版社の社員が手伝うこともあったそうです。昭和30年前後に徐々に廃止されていったそうですが、100万部、200万部のベストセラーなんてことになったらどれぐらい大変な
歩けるならエベレストに子規は明治28年、日清戦争の従軍記者として現地に赴き、激しく病状を悪化させました。松山などでの療養を経て俳句革新に取り組んだのですが、翌年から寝たきり生活を余儀なくされました。いわゆる「病牀六尺」の暮らしです。 それから4年。体調の良い時には人力車で出かけることもありましたが、前年に詠んだ「足たたば」の連作を見ても分かるように子規は自分の足でもう一度立ってみたいという思いを募らせていました。 足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを 足たたば黄河の水をかち渉り崋山の蓮の花剪(き)らましを 歩けるならエベレストの雪を食べてやる。歩けるなら、黄河を徒歩で渡り、崋山(断崖絶壁の足場などで知られる)の蓮を剪ってやる。足のなえた自分へのやるせなさ故に豪快な夢想を歌にした子規でしたが、明治32年には尻に穴が開き、座ることも困難になっていました。 楽しみを奪うな同
みなさんこんにちは。文アル7日目を迎えた7月11日、ついに漱石先生が転生してくれました。7日間連続でログインすれば転生するというキャンペーンのおかげです。鴎外を取り上げて漱石を取り上げないわけにはいきませんので、今回もまた文アルの話です。 新作落語に行かないか? 早速、子規と同じ会派に漱石を加えて悦に入っていたところ、漱石から子規に手紙が届きました。ご覧の通り、新作落語に誘っています。ご存じの方も多いかと思いますが、2人が仲良くなったきっかけの一つが寄席でした。「子規と漱石②」でも紹介しましたが、「ホトトギス」の子規七回忌号に長い談話を寄せた漱石はこう語っています。 彼と僕と交際し始めたも一つの原因は二人で寄せの話をした時先生(子規)も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので、話すに足るとでも思つたのであらう。それから大に近寄て来た 「早くうちに来て!」by金之助こ
みなさんこんにちは。今日で文アル3日目。文豪は6人増えて27人となりました。中でも森鴎外が加わったのは嬉しかったです。だって鴎外がカッコイイから!…ではなくて子規との絡みがゲーム中で再現されるに違いないと楽しみだったんです。 戦地で出会った子規と鴎外新聞「日本」の記者だった子規は明治28(1895)年4月、日清戦争の従軍記者として金州(現在の大連市金州区)へ赴きました。しかし子規が上陸した2日後の4月17日に講和条約が結ばれたため、現地で戦争の光景を見ることはありませんでした。終戦直後の荒れ果てた様子を目の当たりにした子規は「陣中日記」を書いて「日本」に送りましたが、大陸への途上で従兄弟藤野古白の自殺の知らせを受けたことや軍部の扱いのひどさに憤慨して早々に帰国の決意を固めます。 勇んで海を渡ったのですが、この従軍自体が病躯の子規には大きな負担でした。帰りの戦中で大喀血し、命を大きく縮めるこ
みなさんこんにちは。ずっと気になっていたオンラインゲーム「文豪とアルケミスト(文アル)」をとうとう始めてしまいました。2016年11月1日にDMM.comがリリースしたゲーム。スマホ版もリリースされたということもあり、昨今の文豪ブームに乗り遅れたままではいけないと一念発起した次第です! 世界観知っている方には釈迦に説法ですが、説明も交えつつレポしていきます。近代風情が長く続く「日本」で突如、文学書が黒く染まってしまう異常事態が発生し、最初から文学書が存在しなかったかのように人々の記憶からも消え始めた。それは「浸食者」の仕業。事態に対処するために国の本をすべて扱う国定図書館に派遣されたアルケミスト(特務司書=プレーヤー)が、文豪を転生させ、文豪の能力によって浸食者を倒していく-。そういうゲームです。トリフォーが映画化したレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を思い浮かべました。本がなかったら…
子規の短歌を初めて取り上げます。明治32(1899)年7月2日の子規庵での歌会で出された歌です。出席者は子規のほか、河東碧梧桐、香取秀真(ほつま、鋳金工芸作家としても著名)ら7人でした。 有名な作品を取り上げようか迷いながら「竹乃里歌」と歌会稿を収めた全集の六巻をパラパラとめくって夏の歌をあれこれ見ていたら目に止まったのがこの一首です。 子規のあこがれ子規が妻や子供と語らう夢を見ていたのか。一読して切なくなってしまいました。しかも夢が覚めたら砧(きぬた)を打つ音がしていたなんて。砧は洗濯物のシワを伸ばす道具です。今で言えば奥さんがアイロンをかけているという感じですね。目覚めて夢だったと気づいたとき、砧を打っているのが嫁さんだったら…。ああ切なすぎる。 人とのつながりを求め続け、話すことが大好きだった子規。もしもこの夢が実現していたらきっと賑やかな家庭を築いたでしょう。しつけにもやかましく…
今、松山で面白い展覧会が開かれています。正岡子規の孫、正岡明さんが所有する子規や加藤拓川の書簡などが子規記念博物館で展示されています。明さんは、妹律の養子となった忠三郎氏の息子さんです。奈良にお住まいの造園技師で樹木医さん。現在は正岡子規研究所を主宰されているそうです。会期が7月2日までと、あとわずかですが、目を引かれた展示物をいくつか紹介します。 漱石の絵はがき漱石がロンドンから明治33年12月26日付で子規に送った絵はがき。ロンドンの街角のイラストの周囲に細かい文字でびっしり書かれています。内容は次のような感じです。 病気の具合はいかが?僕は東京の深川のような田舎に引きこもって勉強しています。本を買いたいんだが、欲しいものはだいたい30~40円もするから手が出せない(子規の月給が40円)。いろいろ詳しく報告したいところだけど、忙しくて時間が惜しい気持ちがして葉書で済ませてしまった。許し
柿喰へば鐘が鳴るなり法隆寺正岡子規の代表句。などと言う必要がないぐらい有名な俳句ですよね。 明治28(1895)年夏、日清戦争に従軍記者として参加し、帰国の戦中で大喀血して病気を悪化させた子規は療養のため故郷の松山に戻ります。当時松山中学の英語教師をしていた夏目漱石の下宿愚陀仏庵で50日余りを過ごし東京へ向かいます。 漱石に借りたお金で旅立った子規は奈良に立ち寄り、この句を詠みました。このあたりの話は、いずれまた書こうと思います。で、何を書くつもりなのかと言いますとですね。 奈良へ!私、奈良に行ってきたんです。ちょっと関西に行く機会がありましたので。時間的には厳しかったのですが、行けるとこまで行ってやろうとまずは法隆寺へ。 分かってはいましたが、修学旅行生がいっぱい。久しぶりでしたのでゆっくり見たかったのですが、時間がないから駆け足駆け足でまわりました。百済観音は何度見てもいいですね。 子
正岡子規幼少期の豆知識(1)の続きです。 好物はカボチャ大食いで知られる子規ですが、母八重の談話によると、小さい頃の好物はカボチャでした。 柳原極堂の「友人子規」には父の実家佐伯の伯母の次のような談話が紹介されています。 升さんが幼少の頃遊びに来られて御飯時に膳を出すと「オバタン」「カボタ」があるかな、などと片言いつて一同を笑はせたものださうです 八重の談話をまとめた「子規居士幼時」にも出てきます。 其処(※佐伯家)へ月に二三度行くのを楽しみにして居たが佐伯で何が一番好きかといふと南瓜が一番好きだといふ事でした。菓子物は小児の時から矢張好きでありました。 ただカボチャ好きの理由について、妹律は経済的理由からそうなったとしています。 それから稚い時分、南瓜が好きだったとか言いますが、何分貧乏士族のことで、ロクに魚類などよう買わなかったせいもありましょう(家庭より観たる子規) 朝寝坊子規は小学
明治30(1897)年の句。先日紹介した柳原極堂の句碑が建てられた松山の井手神社に前からある子規の句碑に刻まれています。「大文字を吹く」。これ読んで分かる人はどれぐらいいるでしょう?私は分からなかったです。 大きな文字を書いて奉納この神社には天満宮を祭ってあり、毎年祭礼の時に字が上手になるように、と子供たちが競って大きな文字の墨書を奉納する風習があったそうです。妹の律と河東碧梧桐が子規を回顧した「家庭より観たる子規」で2人は次のように語り合っています。 (碧)立花神社の大文字-私どもでは、オモジと言っていました。お祭の日に大きな字を書いてあげると、手が上手になるという、昔の話らしい習慣、あれも無論お書きになったのでしたね。 (律)おもじ、私ども女は、オモウジ、と長く引張つたように思います。兄も、きょうはオモウジの日だと、というと、其の日に限って、判紙をついだりしないで、唐紙と言ひましたがか
明治29(1896)年の句。「寒山落木 巻五」に入っています。読書の秋などと言いますが、さわやかな初夏にのんびり読書にふけるのもいいもんです。私も枕元に積み上げた子規関係の本を適当に取ってはページをめくって楽しんでいます。 子規はこの句を詠む1年前、日清戦争の従軍記者となって現地に赴き、病気を一気に悪化させました。松山での療養を経て秋に東京に戻り、俳句革新などの文学活動を活発化させていきました。 こんなに大望を抱いて死にゆく者がいようかただ明治29年2月には左の腰が腫れて寝たきりになります。3月17日には医師にカリエスと初めて診断されショックを受けます。この日、虚子に宛てた手紙では「貴兄驚き給ふな僕ハ自ら驚きたり」と書き始めます。 覚悟は決めていた。今更驚くこともないともないと思っていたけれども、驚いた。しばらく言葉が出なかった、と打ち明ける子規。その間、頭に浮かんだのは「自分ほど大きな望
「七草集」と「木屑録」。互いの作品批評を通じて認め合った子規と漱石。この時期に2人の間で交わされた有名な論争があります。始終何かを書いている子規に対して漱石が苦言を呈したのがきっかけでした。 漱石「大兄の文はなよなよとして…」明治22(1889)年の大晦日、漱石は松山に帰省中の子規に手紙を書きました。「七草集」で様々な文体を駆使してみせた子規に、漱石は「兼て御趣向の小説は已に筆を下ろし給ひてや。今度は如何なる文体を用ひ給ふ御意見なりや」と尋ねます。 「大兄の文はなよなよとして婦人流の臭気を脱せず、近頃は篁村(饗庭篁村)流に変化せられ旧来の面目を一変せられたる様なりといへども未だ真率の元気に乏しく従ふて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇処少なきやと存候」 読書してideaを養うべしこのように切り出した漱石は、文壇に立ちたいならオリジナルなアイデア(思想)を養うことこそが大切。文章のレトリックな
今年生誕150年となる子規、漱石と同じ慶応三年生まれには、司馬遼太郎「坂の上の雲」でおなじみの秋山真之のほか幸田露伴や尾崎紅葉ら多士済々。実は子規没後100年の年に坪内祐三「慶応三年生まれ七人の旋毛曲がり」を知り、気づかされたという次第ですが…。その坪内氏がチョイスした七人は子規、漱石、露伴、紅葉、宮武外骨、南方熊楠、佐藤緑雨です。 子規の小説家志望に引導を渡した露伴明治25(1892)年、子規は渾身の小説「月の都」を書き上げ、「五重塔」の連載を始めるなど、すでに文壇で活躍中だった露伴に出版のあっせんと批評を乞います。評価は今ひとつで子規は意気消沈。小説家を断念し俳句に懸ける決意をしたことはよく知られているかと思います。 「日本派」に対抗した俳人紅葉「金色夜叉」の尾崎紅葉は俳句も作りました。表現を凝縮させる手法や句を作るときの観察力が小説にも生かせると考えたらしいです。子規の「日本派」に対
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