昨今、オタクと目される、あるいは自認する人物の言動がTwitter等で問題視されることが頻発しています。最近の事例は児童への性加害欲求を明け透けにして憚らなかったものですが、それ以外にも勝手に店舗をアダルトゲームの背景に使用されたことに抗議した企業のレビューを荒らすなど、このような問題行動が「日常茶飯事」 と表現すべきところまで来ています。 オタク文化が受け入れられ、その自由が尊重されるためには、オタクの側にも他者の権利を尊重することが当然求められます。それが近代の民主主義国家の在り方であり、そういう細かい話をさておいても「自分は好き勝手やるがお前らは俺を尊重しろ」などという傍若無人な態度は当然受け入れられません。 我々はオタク文化を含め表現の自由を守ることを目的とするものですが、それは我々オタクの力だけでは実現しません。周囲が我々の自由を尊重しなければ、不当な規制も即座に成立するでしょう
私はよくできた増田なので、結論から先に言うね。 原則として動物は利己的で、人間は動物で、だから人間も利己的な存在だ。 人間は利己的な存在である、この前提で制度は設計されるのが理想だと考える。 利己的な動物である人間に対して、ルールを守らせるには、守った方が得をする設計を用意することだ。 欲望をコントロールしようと思うなら、動物を鞭で打つのではなくて仕組みの方を見直さないとならない。 これが本日の論旨となります。 正直結構ムカついてまして、ここから垂れ流す駄文には言葉が乱れてる部分もあろうかと思いますんで、以上のことに少しでも思いを馳せていただけましたらば、ここで読むのを辞めていただいても結構です。 ※ こないだ撮影済みの古い「写ルンです」が見つかった。 現像すると、10年以上前も、私がまだ高校生だった頃、友達とキャンプした時の写真だった。 思いがけず掘り起こされた若かりし自分たちの写真から
それまで当たり前と思われていなかった権利を得るためには多少強引でも具体的な手段に出て問題化する必要がある。 その結果様々な権利が勝ち取られてきたのであって、決して事なかれ主義の、多数派に阿った穏健なフリーライダーによってではない。 ・・・・と言う様な事を考えると、車椅子以外でも、表現の自由関連でも同じ事が言えるのでは?と思えてきた。 オタク版ローザ・パークスが必要なのでは? 車椅子やその他差別関連の話題では過激な行動や時に誰かに迷惑や負担をかける行動、チキンレースともとれる「現在の限界にチャレンジし、限界を拡張しようとする」ような行動が称揚される一方、 何故かオタク関連、表現の自由関連(だけ?)ではその真逆、「チキンレースするな」「なるべく目立たないようにしろ」と言ったことが叫ばれる。 よくよく考えてみると不思議な事では? いや、不思議ではないのかもしれない。 車椅子の件でも「チキンレース
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