徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が主導する公武合体構想(こうぶがったいこうそう)がご破算になった大きな理由は、慶喜と薩摩藩父、島津久光(しまづひさみつ)の仲が非常に悪いという事でした。どちらも、頭脳明晰(ずのうめいせき)で誇り高いという点が似ていて譲歩が出来ないので事ある毎に対立し、仲裁役の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)がいくら宥(なだ)めてもダメでした。 強硬な公武合体派だった久光が、西郷(せご)どんや大久保一蔵(おおくぼいちぞう)の意見に乗って倒幕に舵を切ったのは、慶喜と険悪だった事が大きな理由ですがでは、二人の仲はどうして悪くなったのでしょう。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する