道徳は教育可能なのか。これは深遠な哲学的問いだ。語学や数学ならば、基礎を教え込み、応用問題を解かせれば、生徒たちはそれなりの実力を身に付ける。だが、丁寧に教え込めば道徳心が芽生えるというものではない。そもそも道徳は普遍化が困難だ。 「噓をつくな」という命題は一般的には道徳的だ。だが、暴漢が刃物を持って友人を追いかけてきたとしよう。自宅に匿(かくま)ってほしいと友人に嘆願された後、刃物を持った男に「ここに男が逃げ込まなかったか」と問われ、友人を匿った男が「そんな人はいない」と噓をつくのは過ちなのか。 ドイツの哲学者カントはこの場合であっても噓をついてはならぬと主張した。だが、日本には「噓も方便」との言葉もある。少し考えてみれば、道徳を教育する困難さは理解可能だ。だが、道徳教育を放棄してしまえばよいかと問えば、それはまた極端だろう。人間はよき逸話を知ると模倣したくなる性向を有している。よき存在