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  • 厩戸皇子は伝説化されてしかるべき位置に生前からいたとする穏当な推古朝概説:川尻秋生「飛鳥・白鳳文化」 - 聖徳太子研究の最前線

    このブログでは、聖徳太子や法隆寺に関する論文や研究書を紹介していますが、時代の見通しをつかむには当時の歴史状況を概説した論考も必要ですので、程良くまとめられた穏当な例をとりあげることにします。 川尻秋生「飛鳥・白鳳文化」 (『岩波講座 日歴史 第2巻 古代2』、岩波書店、2014年) です。 古代史研究者である川尻氏は、古代にあっては仏教が大きな役割が果たしたことに注意したうえで、諸説がある仏教公伝については、「年紀はともかく、漢籍による修飾があっても(その指摘が正しかったとしても)、史実でないとは断言できない」と述べます。 これは妥当ですね。公伝などに関する記述を疑う人たちは、「中国の典籍の表現を使っているから、机上の創作であって史実ではない」と言いがちなのですが、これは、「自分の言葉で、見たもの、感じたことをありのままに書きましょう」という戦後の作文教育の弊害ではないでしょうかね。

    厩戸皇子は伝説化されてしかるべき位置に生前からいたとする穏当な推古朝概説:川尻秋生「飛鳥・白鳳文化」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/08/15
  • 聖徳太子信仰は天武天皇が強めたのではない:大橋一章「法隆寺美術理解のために」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回とりあげた論文が掲載された論文集は最新の内容であって、冒頭の、 大橋一章「総論 法隆寺美術理解のために」(大橋一章・片岡直樹編『法隆寺ー美術史研究のあゆみー』、里文出版、2019年) は代表的な美術史家による法隆寺美術に対する概説として、きわめて有益です。この総論では、法隆寺再建非再建論争史について詳細に検討した後、法隆寺の個々の美術について述べていますが、太子信仰についても大橋氏の見解が示されています(普段は「先生」とお呼びしており、昨年の国立博物館の聖徳太子展でもお会いして話しましたが、このブログは「氏」か「さん」で統一してますので、「大橋氏」でいかせてもらいます)。 聖徳太子の事績を疑う人たちの中には、天武天皇による太子尊重が太子の聖人化と関わりがあるとする人がかなりいます。これは、厩戸皇子を絶讃する『日書紀』の元となった史書の編纂を天武天皇を命じたということも一因となっていそ

    聖徳太子信仰は天武天皇が強めたのではない:大橋一章「法隆寺美術理解のために」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/08/13
  • 天皇は唯一絶対の尊称ではないうえ、長期間にわたって使われず:新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」 - 聖徳太子研究の最前線

    早稲田開催の聖徳太子シンポジウムでの発表資料では、新川登亀男『聖徳太子の歴史学』(講談社、2007年)をあげておきました。新川氏とは、意見が合わない点がいくつかあるのですが、このは有益であってお勧めです。 その新川氏が、まさにこののような視点で天皇号について検討した最近の論文が、 新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」(『日史攷究』(44号、2020年12月) です。 新川氏は、天皇号は実際には2度つくられており、2度目は江戸末期からの近現代だと説きます。というのは、天皇号は古代に出現したものの、平安時代以来、「~院」という呼び方がなされており、1840年11月に亡くなった兼仁上皇に対して「光格天皇」が贈られるまで、長らく使用されていなかったからです。 その証拠に、1603年に編、翌年に補遺篇が出されたイエズス会の『日葡辞書』には「テンノウ」という項目がなく、あるのは「ミカド(帝)

    天皇は唯一絶対の尊称ではないうえ、長期間にわたって使われず:新川登亀男「二度つくられた「天皇」号」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/07/27
  • 追善のための造寺と戦勝祈願による造寺:門田誠一「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」 - 聖徳太子研究の最前線

    法隆寺(斑鳩寺)について考えるには、その先行寺院であって日最初の格寺院である飛鳥寺について検討しておく必要があります。しかも、飛鳥寺を建立したのは、聖徳太子の義理の父である蘇我馬子ですので、影響がないはずがありません。 その飛鳥寺について、百済や中国の例と比較して検討したのが、 門田誠一「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」 (『鷹陵史学』39号、2013年9月) です。 朝鮮史を中心とした古代アジア史の専門家である門田氏は、まず百済最後の都である扶余の王陵とされる陵山寺古墳の西側で遺跡が発見された陵山寺に着目します。この遺跡からは、工房の跡や技術の粋を凝らした見事な金銅の香炉などが出ており、木塔心楚石の周囲から、威徳王の代の567年に「妹兄公主」が舎利を供養した銘文が刻された花崗岩製の舎利龕が発見され、話題になりました。 同じく扶余に建立されたのが、木塔・金堂・講堂が南北に並ぶ、つまり

    追善のための造寺と戦勝祈願による造寺:門田誠一「百済王室祈願寺と飛鳥寺の造寺思想」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/07/20
  • 煬帝への親書は書簡マニュアルの用語を利用:高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回紹介したシンポジウムは、発表者である阿部泰郎さんと吉原浩人の2人が編者を務め、司会の河野貴美子さんも書いている論文集、『南岳衡山と聖徳太子信仰』(勉誠社、2018年)の延長版という面もありました。 中世の太子信仰については膨大な資料があるうえ、おどろおどろしいタイプも多く、また研究も積み重ねられていて踏み込むと泥沼なので、このブログでは、明治から戦時中あたりまでの国家主義的な太子信仰は扱うものの、聖徳太子その人に関する論文や研究書を優先し、中世の太子信仰は敬遠してきました。上記のの中で、太子の時代を扱った唯一の論文が、 高松寿夫「『日書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」 です。 高松氏は、『日書紀』に掲載されている煬帝が推古に当てた親書が、蔵書家として知られた清朝の学者、陸心源の『唐文拾遺』(1888年)に「玄宗遺文」として収録されていることから話を始めます。『日書紀』では隋

    煬帝への親書は書簡マニュアルの用語を利用:高松寿夫「『日本書紀』「推古天皇紀」に見える外交文書」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/07/15
  • 【重要】聖徳太子に関する最新の説が刊行されました:石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか」 - 聖徳太子研究の最前線

    このブログの7月の記事(こちら)で【重要】として予告し、内容を簡単に述べてあった講演録が、学部論集の退職記念号に掲載されて刊行されました。 石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか-「憲法十七条」と『勝鬘経義疏』の共通部分を手がかりとして-」 (『駒澤大学仏教学部論集』第52号、2021年10月) です(PDFは、こちら)。 奥付は10月31日刊となっているものの、雑誌と抜刷ができあがって届いたのは8日であって、ひと月ほど遅れてます。コロナ禍その他の事情により、学内のリモート研究会での発表の形という形をとる結果となりましたが、コロナ感染が下火になったら最終講義代わりの公開講演をする予定になっており、その講演録という形で事前にほとんど書き、刊行日程の都合で発表前に印刷に回してあったため、「です、ます」の講演口調になっています。 内容は、ブログで予告しておいた通りであって、「憲法十七条

    【重要】聖徳太子に関する最新の説が刊行されました:石井公成「聖徳太子は海東の菩薩天子たらんとしたか」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/07/12
  • 「法興」を私年号と称するのは適切か?:細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」 - 聖徳太子研究の最前線

    法隆寺釈迦三尊像銘や伊予温湯碑は、「法興」という年号を用いていることで有名です。これについては、僧侶などの間で用いられていた私年号という扱いをされることが多いのですが、私年号と呼ぶことに疑問を呈した論文が出ています。前回取り上げた甘懐真氏の論文が掲載されている論文集から、もう1紹介しておきます。 細井浩志「日の古代における年号制の成立について」 (水上雅晴編『年号と東アジアー改元の思想と文化ー』、八木書店、2019年) です。暦の研究者である細井氏については、前にも論文を紹介したことがあります(こちら)。 細井氏は、唐の年号の多くは皇帝の徳を示す吉祥句の年号であり、高句麗や新羅の年号も吉祥句年号であったのに対し、8世紀の日の年号は、対馬からの黄金の献上によって「大宝」とし、白亀出現によって「神亀」とするような祥瑞の具象的表記や、「太平」のようなめでたい字の句であったと指摘します。なお

    「法興」を私年号と称するのは適切か?:細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/07/12
  • 儒教と近代日本の図式に縛られず、古訓を重視した「憲法十七条」解釈:保坂俊司「歴史的情報としての聖徳太子」 - 聖徳太子研究の最前線

    少し前に、儒教を中心とする中国古典の立場で「憲法十七条」を解釈しようとした永崎氏のを取り上げました(こちら)。そこで、今回は逆に、第一条の「和」を「ワ」と漢字音で訓んで中国風に解釈する方法を批判し、和語による古訓を重視すべきだとする「憲法十七条」論を紹介しましょう。 保坂俊司「歴史的情報としての聖徳太子ー日的寛容思想の基礎的研究ー(1)」(『国際情報学研究』創刊号、2021年3月) です。 保坂さんは、私の早稲田大学大学院東洋哲学専攻の後輩ですが、儒教・仏教・道教の三教思想を中心としていた東洋哲学専攻にあって、インド中世の宗教思想を専門とするという変わり者ぶりであって、当時からマイペースで淡々飄々と研究してましたね。 後にデリー大学に留学して、以前はシーク教と読ばれていたシク教もやイスラム教などの研究を深め、インドの諸宗教と仏教との関連、現在の宗教事情などにも注意する珍しいタイプの研究

    儒教と近代日本の図式に縛られず、古訓を重視した「憲法十七条」解釈:保坂俊司「歴史的情報としての聖徳太子」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/07/12
  • 「阿毎多利思比孤」は倭国の王を指す言葉で天孫を意味する:近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」について」 - 聖徳太子研究の最前線

    前回の記事で「阿毎多利思比孤」に触れました。この問題については、「追記」であげた、 近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」についてー七世紀の君主号ー」 (『高円史学』第17号、2001年10月。こちら) が妥当と思われる推測をしています。20年以上前の論文ですが、紹介しておきます。なお、『高円(たかまど)史学』は奈良教育学歴史研究室の紀要であって、論文は、近藤氏の修士論文を補訂したものである由。 近藤氏は、「天皇」号の成立に関する諸説を紹介し、最近では天武・持統朝成立説が有力になっているとします。そしてその例として、倭国の王の呼称は「大王」であったが、「大王」から「天皇」への移行にあたっては、「帝(帝王・帝皇・皇帝)」が用いられたとして「天皇」号の成立を天武・持統朝と説く渡辺茂氏の説をとりあげ、検討します。 近藤氏は、渡辺氏があげる「帝」系の語が見える文献は「天皇」という称号を定めた律令

    「阿毎多利思比孤」は倭国の王を指す言葉で天孫を意味する:近藤志帆「「阿輩雞弥阿毎多利思比孤」について」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/05/27
  • 「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船 - 聖徳太子研究の最前線

    前々回の記事で触れたように、「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、奈良時代後半に石上宅嗣とともに「文人の首」と称され、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船(722-785)と思われます。 このことについては、真宗大谷派教学研究所での講演、 石井公成「聖徳太子といかに向き合うか―小倉豊文の太子研究を手がかりとして―」 (『教化研究』166号、2020年7月。こちら) で語っておきました。ただ、題名が題名だけに、この講演録はあまり読まれておらず、淡海三船の件は広く知られていないようです。 聖徳太子の従来のイメージに縛られずに客観的に研究するため、生前に呼ばれていた名によって呼ぼうとして文献に見えない「厩戸王」という呼称を仮に想定した小倉豊文については、尊敬しているため、このブログでも小倉コーナーを特設してあるのですが、こちら)。 さて、『釈日紀』の「私記」によれば、神武天皇などの漢字諡号を定め

    「聖徳太子」という呼称を用いた最初は、歴代天皇の漢字諡号を定めた淡海三船 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/05/27
  • 天孫神話の原型は400年頃に伽耶から須恵器とともに伝わった?:瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日本」 - 聖徳太子研究の最前線

    「阿毎多利思比孤」について二人の研究者の説を紹介しましたが、匈奴であれ倭国であれ、その国独自の伝統に基づく「天子」という概念はありうるものの、「天孫」を天から地上に送るというのは特殊な形ですね。この点が聖武天皇を「孫」とする藤原不比等の政治的位置と関わることを示唆したのは、上山春平氏でした。 ここまでは仮説としてはありうるものの、大山氏の太子虚構説は、これを極度なまでに展開したため、墓穴を掘る結果となった次第です。 ただ、問題は、「天孫降臨」の思想を受け入れる基盤、つまり、天から幼い者が支配者として地に降りてくるという図式が倭国に古くからあったかどうかですね。この問題に取り組んだのが、 瀬間正之「高句麗・百済・伽耶の建国神話と日」 (『東洋文化研究』第20号、2018年3月。こちら) です。早くからコンピュータを活用して『風土記』や『古事記』の仏教利用の面を解明してきた瀬間さんは、最初期

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    zu2 2022/05/27
  • 阿毎多利思比孤は「天の満ち足りた男子」という意味:熊谷公男『大王から天皇へ』 - 聖徳太子研究の最前線

    前回の記事の末尾で、次回とりあげると書いたのが、 熊谷公男『日歴史03 大王から天皇へ』(講談社、2001年) です。書は、4世紀頃の日列島と韓国南部の状況から始まり、律令制によって天皇が確立した時期までをバランス良く描いた良書です。 ブログに関連するところだけ紹介します。第四章「王権の展開」の「2 女帝と太子」では、蘇我氏は戦前は足利尊氏とならぶ逆賊という扱いを受けていたものの、実際には仏教の受容に努め、渡来人を配下に置いて先進技術を活用したとして蘇我氏を評価します。 その蘇我氏系の王族の代表が聖徳太子であったとする熊谷氏は、大山誠一氏の「聖徳太子は実在しなかった」とする「センセーショナルな説」(220-221頁)について、史料批判については一定の評価をしつつ長屋王などによる「捏造」とする点には疑問を呈する者が少なくないとし、太子信仰を『日書紀』成立時点まで引き下げるのは無理

    阿毎多利思比孤は「天の満ち足りた男子」という意味:熊谷公男『大王から天皇へ』 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/05/19
  • 馬子大臣は修史によって厩戸皇子即位の正統性を示したか:若槻義小「推古朝から天武朝に至る修史の復元」 - 聖徳太子研究の最前線

    推古朝の修史に関する研究、笹川尚紀『日書紀成立史攷』「第一章 推古朝の修史にかんする基礎的考察」については、数ヶ月前にこのブログで紹介しました(こちら)。その笹川論文も踏まえたうえで、『日書紀』に修史記事が見える二つの時期について検討した最近の論文が、 若月義小「推古朝から天武朝に至る修史の復元」 (山尾幸久編『古代日の民族・国家・思想』、塙書房、2021年) です。 冠位制の研究で知られる若月氏は、論文では、『日書紀』に見える2つの修史記事、つまり、推古28年是歳条の「皇太子・嶋大臣、共に議して、天皇記及び国記、臣連・伴造国造・百八十部并びに公民等の記を録す」と、天武10年に川嶋皇子などに命じて「帝紀及び上古の諸事を記定」させ、中臣連大嶋と平群臣子首、親してく筆を執りて以て焉を録す」とある記事の関連を検討しています。 推古朝の記事のうち、「帝紀」については王統譜とみなす説があ

    馬子大臣は修史によって厩戸皇子即位の正統性を示したか:若槻義小「推古朝から天武朝に至る修史の復元」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/04/16
  • 炭素計測による写本の年代測定が進行中:小田寛貴「加速器質量分析による和紙資料の14C年代測定法」 - 聖徳太子研究の最前線

    年輪年代法によって法隆寺の木材の伐採年代が発表された時は、大騒ぎになりました。このブログでもその成果について紹介したことがあります(こちら)。 写についても科学的な年代判定が進展しつつあります。今のところ、聖徳太子に関わるような研究はなされていませんが、藤原定家の写などを例にあげて研究の最新状況を説明してくれているのが、 小田寛貴「加速器質量分析による和紙資料の14C年代測定法」 (木俣元一・近謙介編『宗教遺産テクスト学の創成』、勉誠出版、2022年、大判、693頁!) です。「14」は正しくは左肩のところに付きます。 名古屋大学の助教である小田氏は、放射化学・文化財科学を専門としており、放射性炭素による測定によって奈良写経その他の分析に取り組んでいます。 14C年代法は、1940年代後半にシカゴ大学のW・F・リビーなどによって確立された方法です。炭素には三種類があり、自然物の中の炭

    炭素計測による写本の年代測定が進行中:小田寛貴「加速器質量分析による和紙資料の14C年代測定法」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/04/16
  • 菩薩天子をめざした聖徳太子の手本となった中国南朝の皇子:遠藤祐介「蕭子良における菩薩と統治者の合一」 - 聖徳太子研究の最前線

    「憲法十七条」は在家向けの大乗戒経である『優婆塞戒経』を柱としており、この点は南斉の第二皇子であって司徒(宰相)として父の武帝を補佐していた蕭子良と重なります。というか、太子は蕭子良を手としていたと思われることは、以前報告しました(こちら)。その蕭子良について論じた論文が、 遠藤祐介「蕭子良における菩薩と統治者の合一:蕭子良と孔稚珪の問答を通してー」 (『武蔵野大学仏教文化研究所紀要』32号、2016年3月) です。仏教信奉の皇帝となると、筆頭にあがるのが梁の武帝であって、この時期に皇帝菩薩という点が強調されたわけですが、その武帝に大きな影響を与えたのが、親戚であって文学仲間でもあったこの竟陵王蕭子良(458-494)です。 遠藤氏のこの論文は、蕭子良と代々の道教信者であった文人官僚の孔稚珪(?ー501)との間でかわされた問答に、大乗仏教の菩薩と統治者の合一というテーマが見える点を検討し

    菩薩天子をめざした聖徳太子の手本となった中国南朝の皇子:遠藤祐介「蕭子良における菩薩と統治者の合一」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/04/16
  • 「近代の聖徳太子」シンポでのコメント:津田左右吉曰く、「憲法十七条」はデモクラシイではない - 聖徳太子研究の最前線

    「近代の聖徳太子」シンポジウムがいかに充実していたかは、前回の記事では紹介しきれませんが、3人の発表を承けて私がコメントし、それに対する発表者の応答があった後、フロアーを交えて討議になりました。 私はまず、私自身、N-gramを利用した古典文献の比較対照ツール、NGSMの作成に関わったこともあるため(こちら)、その威力を熟知しているN-gramを活用したGoogle Ngram Viewerで、Prince Shotoku という語を英語文献で検索してみた結果を示し、年代ごとの言及の変化を示しました。 Shotoku Taishi で検索しても同様の結果となります。この二つの語を同時に検索して比較することもできますし、下の年代のところをクリックすると、Googleに収録されているその年代の文献の参照箇所に飛びます(こちら)。英語が主ですが、諸国語の文献もかなりカバーされており、不十分ながら

    「近代の聖徳太子」シンポでのコメント:津田左右吉曰く、「憲法十七条」はデモクラシイではない - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/03/09
  • 逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(3) - 聖徳太子研究の最前線

    井沢氏の聖徳太子論は、シリーズ第1巻となる『逆説の日史1 古代黎明編 封印された「倭」の謎』(小学館、1994年)の主張に基づいていますので、ここでそちらを見ておきます。 「第一章 古代日列島人編ー日はどうして「倭」と呼ばれたのか」では、古代の日人は集落を「わ」と呼んでおり、濠をめぐらしていたので、これを表記する際、「輪状」のものとか「めぐらす」という意味の「環」や「輪」の字をあてたとします。そして、「わ」には「人間のつながり、親交」という意味もあるとし、我々の先祖は、こちらの面を示すため、音も意味も最も近い漢字として「和」を選んだのだと説きます。 「和」を「わ」と発音するのは、漢字音ではなく大和言葉の「わ」を当てたのだというのは、国語学では聞いたことがなく、国語辞典や古語辞典などにも載っていない珍説です。そのような大和言葉の「わ」があるなら、『万葉集』などにそうした用例がありそう

    逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(3) - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/02/20
  • 逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2) - 聖徳太子研究の最前線

    粗雑な『聖徳太子のひみつ』同様(こちら)、ツッコミどころ満載です。 まず、井沢氏は、聖徳太子は「日仏教の祖」とされるが、大事なのは「和の思想」であって、仏教でも儒教でもキリスト教でもない日の伝統である「和の思想」を「発見」したのは、聖徳太子だと述べ、その太子がなぜ「聖徳」と呼ばれたのかという疑問から話を始めます(8頁)。 しかし、「憲法十七条」における「和」を聖徳太子の思想の中心として重視するようになったのは、昭和初期のナショナリズムの高まりの中においてのことでした。ヘーゲル研究で知られる国家主義的なドイツ哲学者、紀平正美などが持ち上げ、紀平が属する国民精神文化研究所で編纂した『国体の義』(文部省教学局、1937年)において、「和」を建国以来の日の特質と強調した結果、広まったものです(こちら)。 井沢氏がしばしば用いる「和の精神」という語も、この『国体の義』に見えています。「日

    逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(2) - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/02/19
  • 逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1) - 聖徳太子研究の最前線

    小説を書く者などは、浅はかな然し罪深いもので、そりやこそ、時至れりとばかり筆を揮つて、有ること無いこと、見て来たやうに出たらめを描くのである。と云つて置いて、此以下は少しばかり出たらめを描くが、それは全く出たらめであると思つていたゞきたい。但し出たらめを描くやうにさせた、即ち定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演した事である。(『玄談』日評論社、1941年) と、ユーモア混じりに述べています。余裕ですね。実際には、露伴は歴史学者以上に幅広い教養を備えており、この小説でも、時に想像を交えつつ、軽妙な文体に託して恐るべき博識をさりげなく披露しています。 ところが、井沢氏の『聖徳太子のひみつ』は歴史小説でないのに、こうした区別に留意せず、参考にした文献に触れず、歴史の真実を明らかにしたと称して「出たらめ」を書きまくっているのです。 日歴史学者と違って自分は世界史に通じているという自己宣伝はどこへ

    逆説ではなく、珍説・妄説だらけの歴史本:井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編 聖徳太子の称号の謎』(1) - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/02/19
  • 倭国の群臣会議と比較すべき古代韓国における合議制の展開:倉本一宏「朝鮮三国における権力集中」 - 聖徳太子研究の最前線

    古代の日について語るには、同時代や少し前の時代の韓国中国の状況と比較する必要があります。 「憲法十七条」の「和」の背景となる群臣の合議については、少し前に新羅の「和白」にも触れた鈴木明子氏の合議制論文を紹介しましたが(こちら)、古代韓国三国における合議制と王への権力集中の過程を論じたのが、 倉一宏『日古代国家成立の政権構造』「第二章 朝鮮三国における権力集中」 (吉川弘文館、1997年) です。 倉氏は、まず次のような石母田正氏の類型説(1971年)を提示します。 ・国王自身に支配階級の権力が集中される百済類型 ・宰臣が国政を集中的に独占し、国王は名目的な地位にとどまる高句麗類型 ・支配階級の権力が王位に就く資格のある王族の一人に集中され、王位には女性が即き国権をもたない政治的首長の役割を果たし、これらとは別に貴族の首長の評議によって国家の大事を決定する機関を持つという新羅類型

    倭国の群臣会議と比較すべき古代韓国における合議制の展開:倉本一宏「朝鮮三国における権力集中」 - 聖徳太子研究の最前線
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    zu2 2022/02/14