慶応4(1868)年2月、泉州・堺に上陸したフランス兵と衝突し、22人を死傷させた事件の責任をとり、切腹することになった箕浦猪之吉ら20人の土佐藩士。自らの腹に切っ先を入れると、苦痛に耐えながら横一文字に切り裂いていく様はすさまじかった。間近で見ていたフランス政府、軍の関係者の顔は一様に青ざめ、目を覆うほどの残酷シーンの連続だった。 切腹 大坂の土佐藩邸から同行してきた熊本、広島両藩の藩士から「準備が整いました」と告げられた20人は妙國寺の本堂前の庭に設けられた刑場へ移動した。ところが、朝のうち晴れていた空が急に雲に覆われると、にわかに雨が降ってきたため、儀式は一時ストップする。 寺の周囲に集まった多くの人たちは慌ただしく動きまわっていたが、すでに発砲を自己申告したときから死を覚悟していた20人の心に乱れはなかった。 雨も約2時間でやみ、再び準備を整えたころには夕刻が迫っていた。そこに名簿