竹内研究室の日記 2019 | 01 |
音楽業界はなぜ縮小したか? を文系的に考察する。 「生活必需品としての価値の下落」音楽業界が産業として最も大きくなったのは(最も売上が高かったのは)1990年代半ばから後半にかけてとのことで、その当時ぼくは20代の若者だった。その頃のぼくの気分というものを振り返ると、CDを買って聞いていないと、ちょっと人間関係的にヤバいなぁみたいな雰囲気があった。というのも、一つには「つき合いのカラオケ」というのがあった。ぼくは特段カラオケが好きというわけではなかったが、仕事のつき合いでも、あるいはプライベートの合コンなどでも、カラオケに行く機会はよくあった。だから、そこで歌うための歌を仕込んでおく必要があった。そしてそれは、できれば流行りの歌が良かった。最新ヒットチャートを賑わしている歌を歌えば、周囲の評価が高かったからだ。だから、カラオケで歌うためのヒット曲のCDをよく買った。その頃に買ったのは、猿岩
AKBの総選挙? はっきりいってそんなもの俺にとってはクソ食らえだ、下の写真を見て欲しいこれはCDから「投票用紙」だけを取ったCDの成れの果てだ。大量にゴミとして捨てられているAKBのCD.... 音楽はずーっと音楽産業の戦略として消耗品として売られてきた。しかしこれを見るともはや消耗品ですらないってことだ。 もはや日本人にとって音楽はゴミ同然なんだ、と思った。 そしてこんなコンシューマを育てたのは日本の音楽産業そのものってこと これが日本の今のミリオンセラーである。これって、もはや何かが、おかしい、なんていうレベルではないもはや日本人にとって音楽は無用の長物に過ぎない、ということをこの現実は証明している。例え口先で「音楽は好き」なんていってもそれは大嘘で実は単にトレンドに乗り遅れないためのツールでしかない。この国には音楽文化なんか最初からない、ということだ。 音楽を心から好きな人はいるけ
前から読まなければと思っていたところ、訳書を御恵贈いただいたので、紹介する。原題はMerchants of Doubt。コンウェイはよく知らないが、オレスケスは、科学史家で、現在カリフォルニア大学サンディエゴ校のSTSプログラムのディレクターである。もともと、地球物理や海洋学の歴史を研究していたのだが、この本で一躍、やや違った方面で脚光を浴びるようになった。なお、オレスケスは私の指導教授のピーター・ギャリソンの(だいぶ前だが)大学院生の一人であり、さらになんどか私が共同研究をした友人のディビッド・カイザーの学部時代の指導教員でもある。というわけで、当然、私はこの本に対してかなり好意的なバイアスがかかっていることは認めなければならない。また、この紹介は長いわりにはあまり時間をかけずに書いたので、不備は色々あるかもしれない。ご批判を頂ければ幸いである。 この本は英語圏ではすでにかなり良く知られ
山下洋輔の新刊エッセイ「ピアノ弾き即興人生」を読んだら、おもしろいくだりがあった。 音楽を職業としていると、どうしても音楽を普通に聴くことはできなくなる。それゆえテレビから流れるちょっとした音楽にも苛立ってしまうというお話。どんな音楽であれ、耳に入ってくると、つい批評したり、なにかをそこから学ぼうとしてしまうという。落語やNHKの「ラジオ深夜便」といった人の言葉を誘眠剤代わりに聴くときがあるけれど、音楽ではそうはいかない、眠るどころではないらしい。 たとえば、昔の歌謡曲でも、六〇年代ヒットパレードでも、モーツァルトでも、聴こえたとたんに神経がピリピリする。「そうか、こういう風に曲を作っていたのか」「この編曲はどうなっているのか」「この曲が作られた背景にはどういう社会的音楽的状況があったのだろう」などと要らぬ考えに迷い込む。そのうち、自分の知識の無さに情けなくなったりして、安らかに眠るどころ
自分の好きなことを貫くということ最近のぼくのブームは、「世間では誤って認識されていること」をえぐり出し、それに別の価値観を与え、一つのコンセプトとして確定することだ。去年から、ワタナベコメディスクールというお笑いタレントを養成する専門学校で講師をしているのだけれど、そこで教える中で徐々に明確になってきたのは、「結局は自分の好きなことを貫き通したやつが負ける」ということだ。これはお笑い芸人を目指す生徒たちを見ていて気づいたことで、なおかつ授業の中でも何度となくくり返し述べてきた。何度となくくり返し述べ、ほとんど全ての生徒がそれを理解してくれたのにもかかわらず、しかしなかなか実践することはできないという、少々困難なコンセプトなのだ。 「結局は自分の好きなことを貫き通したやつが勝つ」というのはよく言われることだ。そしてお笑い芸人を目指している生徒たちも、たいていはそういうもんだと信じていて、自分
マニア訪問ある日、旧知の編集者H氏と浅草のもつ焼き屋で打ち合わせをしていたときのことだ。世の中にはいろんなコレクターやマニアがいるよね〜、と、おれは酒の席ではだいたいいつもそんな話ばっかりしているのだが、この日もやっぱりそういう話になった。すると、その編集者H氏は「ぼくの知り合いにものすごいオーディオマニアの人がいるんですよ」というではないか。そういえば、先日読んだ罪山さんのエントリ「めくるめくオーディオカルトの世界」シリーズがやたらとおもしろかったので、その話をしてみた。めくるめくオーディオカルトの世界めくるめくオーディオカルトの世界2 オーディオカルトの極北?! ローゼンクランツの世界めくるめくオーディオカルトの世界3 中島みゆき様が、ガラス制CD発売めくるめくオーディオカルトの世界4 マイナスイオンオーディオの世界すると編集者H氏はこう言った。「でもねえ、その人はかなりオーディオにお
マニア訪問普段は過疎ってるブログに、前編だけでたくさんのブックマークがつき、とてもありがたいことだと思う。いくつか批判的なご意見もあるようだが、まあ、それも無理はないだろう。批判されるべき点があるとすれば、それはYさんの行動ではなく、それを正しく伝えられないおれの文章力の方だ。その点ははっきりさせておきたい。今回部屋を見せていただいたYさんの名誉のために言っておくが、かれはおかしな人でもなんでもないよ。仕事はキチンとこなし、年齢相応かそれ以上の役職にも就き、優しい奥さんと一緒に趣味(オーディオとかね)を楽しみながら、充実した生活を送っている。ただ、普通のひとより経済的に恵まれていて、なおかつ奥さんの理解もあることから、一般の常識よりもたくさんのお金をオーディオやその他の趣味に注ぎ込むことが出来ているのだ。中編に行く前にいちおう確認しておくと、おれはこの記事でオーディマニアを批判するつもりな
「勉強ができる」というのは別に蔑称でもなんでもない。蔑まれたと感じるのは、そう思い込んでいるだけだ。被害者意識をこじらせた結果である。 こういう記事があった。「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。 そう言って、この人は「頭がいい子」というのが蔑称であったと主張する。そうしてそれは、勉強ができる子に特有の問題だとする。日本には、勉強ができる子を蔑むような風土があって、それで自分は苦しい思いをさせられてきたし、また他にもさせられている「勉強のできる」人々がいると。 確かに、そういう場合
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く