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これはすごいと人生と歴史に関するdaysleeeperのブックマーク (6)

  • 戸籍の写しの取り寄せで214年前まで感慨深く辿っていく - Really Saying Something

    三行まとめ 青森県にいる先祖の戸籍謄(除籍謄)の写しを集められるだけ集めた 一番古い先祖の生年が1810年だということがわかった 戸籍を通じて、「自分は人類のデータの一部だ」と思うようになった この記事は長いです だいぶ長くなってしまいました。新聞記事方式を取り、途中で脱落してもいい仕組みにしています。 三行まとめ この記事は長いです 取り寄せることができた戸籍の写しについて なぜ突然先祖の戸籍の写しを集めようと思ったか(行動の背景と目的) 背景その1と目的:戸籍の広域交付制度が始まった 背景その2:私が子孫の終点だ!(直系で) 戸籍をさかのぼってみた 父親の父母より上 五世の祖父より上 母親の父母より上 五世の祖父より上 たどれる中で一番上の世代 たどれる中で一番古い生まれ 戸籍謄(除籍謄)を取り寄せる一例 まずは祖父母の戸籍から 祖父母の戸籍から一気にさかのぼれることが多かった

    戸籍の写しの取り寄せで214年前まで感慨深く辿っていく - Really Saying Something
    daysleeeper
    daysleeeper 2024/06/02
    「わたしの家系図物語 調べてカンタン!」て本を読んで自分もやろうと思ってから数年経過。このブログの本文読んでないけど、戸籍って古いものから破棄されてくからお早めにってその本に書いてあったけど違うの?
  • 同じ時期に就活した女だよ。 2000年代も確かに氷河期だけど、この増田が書い..

    同じ時期に就活した女だよ。 2000年代も確かに氷河期だけど、この増田が書いている氷河期第1世代はもう一つ忘れてはいけない不遇がある。 それは「団塊ジュニア」という、人数が多い世代だということだ。 同世代の人数がとにかく多い。つまり競争相手が多すぎて大学受験が熾烈を極めたのだ。 私は県内の公立の中でも有数の進学校に通っていたが、当時のクラス数は1学年14クラスもあった。この学校だけでなく、全体的にそうだった。そもそもこの学校に入るのも高倍率だったのだから、どれほど人数が多かったか。 1972年生まれをピークに、前後数年はそれぞれ200万人の同学年がいた時代だ。今の子供の倍以上である。 人数が多い世代だからといって、大学のキャパを急に増やしてくれるわけではない。 受験倍率は早慶レベルでも10倍超。 今みたいなAO入試などない。国公立は5教科が必須。浪人当たり前。予備校大繁盛。 「予備校ブギ」

    同じ時期に就活した女だよ。 2000年代も確かに氷河期だけど、この増田が書い..
  • 超氷河期なんていわれた世代だよ

    山一證券に内定が決まってた同級生がいた世代。なので、記憶がちょっと曖昧なところもあるかもしれないが許してほしい。 山一廃業のニュースが流れた日、内定をもらっていたその人は大学に姿を見せなかった。翌日青白い顔をして現れ就職相談課へ向かったが、状況はどうにもならないようだった。 10人に内定を出していた企業は、2月になって1人を除いて内定取り消しを知らせてきた。そんなことがあちこちで起こった。 内定を取り消された者への補償など、誰も何も言わなかった。だってそれは仕方がないことだから、不況だからね。山一が倒れるくらいだから他の企業も潰れてもおかしくないだろう? そういうリスクがあるのはわかってるんだから、なんで公務員試験を受けなかった? そんな空気だった。もっとも公務員試験も教員採用試験も受けたところで採用される確率はとても低く、強いコネでもないと決まらない時代でもあった。 当時の空気感は今と全

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  • 「少女マンガという言葉すらなく 女性はジーパンもはけない時代に」 “女手塚”が拓いた少女マンガの地平

    “水野なくして今の少女マンガはない”と言われるマンガ家・水野英子さん(83)。当時はまだ男性作家が中心だった少女マンガ界で、『星のたてごと』『白いトロイカ』など数々のヒット作を発表してきました。 今ほど少女マンガが多様でなかった時代に、初めて男女恋愛を真っ向から描き、「少女マンガ」の基礎を築いた立役者。手塚治虫に見いだされ、「トキワ荘の伝説の紅一点」として若き日を過ごした水野さんが、少女マンガの黎明期を語ります。(後篇を読む) ●自分の意思を持って行動するヒロインを描きたかった 水野英子は少女マンガの世界を拓いた立役者である。といっても現代マンガの多様性に慣れた読者にはピンとこないかもしれないが、かつて少女マンガの世界は、今のように多種多様なものではなかった。 1955年、水野英子が弱冠15歳でデビューしたのは、「少女マンガ」という言葉すらなかった時代である。 「当時は『少女もの』『少年

    「少女マンガという言葉すらなく 女性はジーパンもはけない時代に」 “女手塚”が拓いた少女マンガの地平
  • 今までの人生で脳汁がでるほど嵌ったコンテンツ125 +α本 - orangestarの雑記

    最近、頭おかしくなることがない。 www.karzusp.net かーずさんが、いつの間にか製麺業を引退していた。いろいろ理由はあったのだろうけれども、大きなきっかけは『『ゼルダの伝説BoW』をプレイできました。これがもう、快楽物質ドバドバ出て昇天し』かけたかららしい。 脳汁どばどば。 そういえば、最近、そういう体験をしていない。『うえええぇええええっぇえっ!おもしっれええぇええ!脳汁でるぅううううう!じぬううぅううう!』してない。もう数年もしていない。歳をとると、感性も摩耗して、すげーすげーしづらくなる。少なくとも自分はそうで。だから、脳汁びゃーできる人が羨ましい、自分が悲しい。嫁はゴリゴリと脳汁出して、今は若俳にはまっているけれども。あれは別の生き物だから……。 最近、ミドルエイジを迎えた周りのブロガー諸子が人生を振り返っている。これからの人生と今までの人生。 自分は、振り返るにも色々

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  • 今までの人生で脳汁が出たコンテンツ62本 - シロクマの屑籠

    今までの人生で脳汁がでるほど嵌ったコンテンツ125 +α - orangestarの雑記 数日前に、小島アジコさんが「今までの人生で脳汁がでるほど嵌ったコンテンツ125 +α」という長ったらしい文章をブログに書いておられた。あの滅茶苦茶な長文は、不特定多数が読むことを度外視した、ふた昔ほど前のブログの文章、というよりウェブサイトの文章のようだった。 で、読んでいるうちに自分も同じことをやってみたくなった。そうすることで、私と小島アジコさんの嗜好の違いや来歴の違いだけでなく、「脳汁が出るほどハマッたものの定義の違い」みたいなものも詳らかになる気がしたからだ。このブログの常連読者さんでない人には読む価値の無い文章なので、それでも読みたい人だけ付き合ってやってください。 小学校低学年まで 小学校低学年だったのは昭和56年~59年ぐらい、ファミコンはまだ普及していなかったしビデオ録画もできなか

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