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樽井藤吉の「大東合邦論」 - 内田樹の研究室
『権藤成卿論』を書いている途中だが、行論の必要上、樽井藤吉の「大東合邦論」を祖述することになった... 『権藤成卿論』を書いている途中だが、行論の必要上、樽井藤吉の「大東合邦論」を祖述することになった。ひとまとまりの論考なので、樽井の思想とアジア主義の構図を理解してもらうために、この部分だけ公開する。 樽井 藤吉(1850-1922)は大和の人である。上京して平田派国学を学び、西南戦争では西郷側に立つ。敗戦後、無人島に理想の村をつくろうと植民に取り組み失敗。長崎に転じた時に自説が西洋の「社会主義」に近いと教えられ、佐賀を拠点とする「東洋社会党」を結成する。ただちに解散命令を受け、樽井は禁固刑に処される(1882年)。出獄後、玄洋社の平岡浩太郎、頭山満の知遇を得て、金玉均に出会い、韓国での政治革命に実力で関与する計画を立てる。しかし、韓国での爆弾闘争をめざした大井憲太郎や景山英子らが逮捕され、樽井も連座して再び獄に繋がれる(大阪事件、1885年)。出獄後の明治25年(1892年)に衆議院議員に