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人生という憂鬱のためのアーカイヴズ
今日、村上龍は、かつてW村上と並び立たされた村上春樹に比べ、批評などの対象に取り上げられる機会がす... 今日、村上龍は、かつてW村上と並び立たされた村上春樹に比べ、批評などの対象に取り上げられる機会がすくないような、あるいは世間一般の文学ファンが抱く関心レベルで見たとき、重要度が低く見積もられているような印象を持つ。たとえば東浩紀が持ち上げる「ブログ論壇」だか「サブカル論壇」だかをすこしチェックしてみたとき、村上春樹について触れているものならばすぐに見つけられるのに、村上龍になるとそうはいかない。このことの理由はおそらく、柄谷行人が、加藤典洋の『アメリカの影』で自分について指されている箇所への反論を含む「想像力のベース」(90年)において、すでに指摘されているといっていい。 すなわち、〈日本の一九七〇年代後半にポストヒストリカル(ポストモダン)な傾向があらわれたとしたら、その一つは明らかに村上龍にあり、もう一つは村上春樹にある。しかし、この二人は対照的である。春樹が「意味」を空無化するための
2005/10/04 リンク