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哲学者が障害を引き合いに出す時のこと - ダブル手帳の障害者読み物
各々の哲学者に主張の中身とは別に自問してほしいことがある。人生の意味や存在の良し悪しについて哲学... 各々の哲学者に主張の中身とは別に自問してほしいことがある。人生の意味や存在の良し悪しについて哲学的に議論する際、不幸・苦痛・害悪等の顕著な例として、障害をあまりに引き合いに出し過ぎてはいないだろうか。 前記事で言及した森岡氏の著書*1にも「たとえば、重い病気や障害を例にとって考えれば、」*2のように「重い病気や障害」という定型句が繰り返し登場する。これはベネターや森岡氏に限らず多くの哲学者に言える。その頻度の高さから察するに深い考えがあってのこととは思えない。むしろパッと思い付く不幸の代名詞、苦痛や害悪のワイルドカードのように認識されている感じがする。 もしよく知らないままにそうした理由で濫用しているのだとすれば、現に重い障害を生きる私にとってはおもしろくない。障害者が社会や創作物に理由なく登場することは私が常々願っていることだ。しかし障害という属性が抽象的な形で幸不幸の議論に重宝されるの
2022/07/19 リンク