エントリーの編集
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
(4ページ目)養老孟司「結核で亡くなる朝、父はなぜ文鳥を放したのか。3000体の死体を見て、人生は些細な違いの寄せ集めだと感じるように」 なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた|教養|婦人公論.jp
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
(4ページ目)養老孟司「結核で亡くなる朝、父はなぜ文鳥を放したのか。3000体の死体を見て、人生は些細な違いの寄せ集めだと感じるように」 なるようになる。 僕はこんなふうに生きてきた|教養|婦人公論.jp
記憶の始まりは父の死 思い出に残る一つの風景は、結核の療養のため自宅で寝ていた父のベッド脇にあった... 記憶の始まりは父の死 思い出に残る一つの風景は、結核の療養のため自宅で寝ていた父のベッド脇にあったガラガラです。どうして赤ちゃんの玩具があるのか不思議でじっと見つめていると、私の視線に気づいた父が、「これを鳴らすと、看護婦さんが来てくれるんだよ」と答えてくれました。 声を出しにくいからガラガラを使っているんだと聞いて、「ああ、そういうことか」と思ったから、よく覚えている。その頃から解釈できると納得するタチだったんでしょう。理屈っぽいから(笑)。 ガラガラはオモチャなのに、僕のものじゃないのはおかしいという思いがあったけれど、その気持ちを父にぶつけてよいものか、遠慮があったようにも思う。 どんな感情にもはじめがあるはず。喜怒哀楽みたいな本能的なものは別として遠慮とか気遣いとかは社会的感情でしょう。それを感じた最初の機会でした。 もう一つの光景は、とても天気がいい日で、日の当たる窓際のベッドか