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―――――― 小倉藩との和睦も成立して帰れると思いきや、藩から現地に残れという命令が来た。治安維持のため... ―――――― 小倉藩との和睦も成立して帰れると思いきや、藩から現地に残れという命令が来た。治安維持のため警察の真似事をしろという。結局、慶応二年の年の瀬と翌年の元旦は門司で迎えることになった。 年末にかけて中央では事態が動き続ける。家茂の死後、徳川宗家の家督は慶喜が継承したが、将軍職は固辞し続けていた。しかし、十二月になってようやく就任する。 継承に関しては田安亀之助を後継者とする家茂の遺言があったものの、複雑な政治情勢において幼少の亀之助ではいけないという判断があって慶喜が後継者となったという経緯があった。彼としてはそれを尊重したかったけど周りに言われて仕方なく……という体裁をとりたかったのだろうか。こればかりは本人に聞かないとわからない。 ともあれ最後の将軍・徳川慶喜が誕生した。新将軍が直面した難題は二つ。長州藩の処分と兵庫開港問題だ。 前者は我らが長州の処分問題である。武力討伐に失敗