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紫式部の父・藤原為時は、どのような人物だったのだろうか(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
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紫式部の父・藤原為時は、どのような人物だったのだろうか(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
今年の大河ドラマ「光る君へ」がはじまった。主人公の紫式部の父は、藤原為時であるが謎の多い人物であ... 今年の大河ドラマ「光る君へ」がはじまった。主人公の紫式部の父は、藤原為時であるが謎の多い人物である。いかなる人物なのか、詳しく考えることにしよう。 藤原為時は、雅正の三男として誕生した(生年不詳)。雅正には、為時のほかに2人の男子がおり、長男が為頼である。為頼は摂津、丹波、陸奥の国司を歴任し、従四位下・太皇太后宮亮に叙位任官された。 為頼は和歌に優れており、その腕前は勅撰集に入集するほどだった。家集『為頼集』もある。後述するとおり、為時も詩文に優れていた。次男の為長は従五位上・陸奥守に叙位任官されたが、陸奥で亡くなったという。 安和元年(968)11月、為時は播磨権少掾に任じられ、この前後に藤原為信の娘と結婚したと考えられている。為時は妻との間に、長女、次女(紫式部)、惟規と3人の子に恵まれた。 しかし、為時の妻は体が弱かったのか、惟規を産んでから、ほどなくして亡くなったと推測されている。