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「兵隊を笑かすために」靖国神社には戦死した吉本漫才師が祀られている 慰問団「わらわし隊」に起きた悲劇 (4ページ目)
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「兵隊を笑かすために」靖国神社には戦死した吉本漫才師が祀られている 慰問団「わらわし隊」に起きた悲劇 (4ページ目)
吉本と山口組が接触したとある一件 昭和に入ってすぐ、吉本が東宝と組んだことで松竹と対立することとな... 吉本と山口組が接触したとある一件 昭和に入ってすぐ、吉本が東宝と組んだことで松竹と対立することとなったこの時期に、せいは山口組二代目の山口登組長と接触を持つことになる。浪曲師、広沢虎造の興行権を求めたのがきっかけだった。 虎造は、『清水次郎長伝』の「馬鹿は死ななきゃなおらない」や『石松三十石船道中』の「寿司食いねえ」を流行語にするなど、たいへんな人気を誇っていた。その虎造と専属契約を結びたいと考え、山口組を頼ったのだ。浪曲の興行はおよそ、ヤクザとつながる興行師が仕切っていたからだ。山口組はまだそれほど巨大な組織ではなかったものの、この頃には「山口組興行部」をつくっていた。 せいが山口登組長にはじめて会ったのは、1934年(昭和9年)だといわれている。虎造と契約できたのは、1938年(昭和13年)のこと。前段階にどんな話し合いがあったかはともかく、せいが直接、虎造の家を訪ねて行って話し込み、