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■ - 森の路はずれ(避難所)
ゲームを学術的に考えるにあたって、自己完結型(独りよがりの域を出ない)の体験を語ることが差し控えら... ゲームを学術的に考えるにあたって、自己完結型(独りよがりの域を出ない)の体験を語ることが差し控えられなければならないということはわかるけれども、そのスタイルでどうして、「プレイヤーという存在」というテーマについて学術的に考えることができるのだろう? というジレンマを、僕は無視できないでいるのです。 「プレイヤーという存在」というとき、そのプレイヤーとは、暗黙のうちに論者自身のことではないのですか。観察対象としての第三者群(データ)と、演出・ゲームデザイン論。前者であるのだというなら(そういうデータがあるというのなら)それはずいぶん滑稽であり、後者であるならそれは「プレイヤーという存在」というより、製作者側が任意に想定する「プレイヤーという規定(枠)」をめぐる議論でしょう。 それは決して存在のことじゃない。存在というのはそもそも自意識であって、データや技術論として取り出しうるものじゃないはず
2006/08/18 リンク