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昭和の都電廃止 残された「敷石」はなぜ飛ぶように売れたのか? | アーバンライフ東京
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昭和の都電廃止 残された「敷石」はなぜ飛ぶように売れたのか? | アーバンライフ東京
路面電車が廃止され、車両や機材の売却が一苦労――。当時残された車両は1068両、レールは延べ77万6000m、... 路面電車が廃止され、車両や機材の売却が一苦労――。当時残された車両は1068両、レールは延べ77万6000m、敷石は330万枚も。その行方とは? 鉄道ライターの弘中新一さんが解説します。 路面電車の数え歌である電車唱歌。そのなかに、1905(明治38)年発表の『東京地理教育電車唱歌』があります。同歌の一番の歌詞は 「玉の宮居は丸の内 近き日比谷に集まれる 電車の道は十文字 まず上野へと遊ばんか」 で、計52番まであります。 発表当時、東京の路面電車は ・東京電車鉄道 ・東京市街鉄道 ・東京電気鉄道 の三社で運営されていました。翌1906年、三社は合併して東京鉄道に。その後、1911年に東京市電、1943(昭和18)年に東京都の発足で東京都電となりました。 このとき、路面電車はすでに東京に欠かせない交通手段となっており、それゆえ、常に混雑していました。その状況は、大正中期の流行歌『東京節』で