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親中派のはずが何故? のちの「日独伊三国同盟」に繋がったヒトラーの方向転換
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親中派のはずが何故? のちの「日独伊三国同盟」に繋がったヒトラーの方向転換
第二次世界大戦前、ドイツは親中国政策を取っていたが、ヒトラーの台頭により外交方針は大きく転換した... 第二次世界大戦前、ドイツは親中国政策を取っていたが、ヒトラーの台頭により外交方針は大きく転換した。ヒトラーはなぜ「親日路線」に舵を切ったのか? ※本稿は、細谷雄一編著『世界史としての「大東亜戦争」』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。 親中政策を取っていたドイツ 日本が米英をはじめとする諸列強との大戦争に突入する過程を考える場合、1940年の日独伊三国同盟で頂点に達したドイツとの関係が重大な要因であったことは論を俟たない。当時、ドイツはすでに対英戦争を遂行中であり、またイギリスの後ろ盾となっているアメリカとの対立を深めていた。 そのドイツと参戦条項を含む軍事同盟を結ぶことは、ヒトラーの側に立ち、米英と対決していくとの姿勢を打ち出したも同然であり、事実、三国同盟は、太平洋戦争への道における「引き返し不能点(ポイント・オブ・ノーリターン)」となったのである。 こうした結果を知る後世のわ