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文証がない教説は否定されるべきとするのが日蓮の思想である。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
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文証がない教説は否定されるべきとするのが日蓮の思想である。 - 気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆
いつもみなさん、ありがとうございます。 さて私はこのブログで、日蓮遺文やら経文やらを具体的に引用し... いつもみなさん、ありがとうございます。 さて私はこのブログで、日蓮遺文やら経文やらを具体的に引用し、その本来の意義や教団の矛盾点等を明らかにすることが多いです。 さてそんなブログの執筆姿勢なのですが、一部の創価学会や日蓮正宗、顕正会等の大石寺系教団信者たちから謂れのない非難中傷を浴びることがあります。その中で多いのが「道理証文より現証にはすぎず」(『三三蔵祈雨事』創価学会旧版御書全集1468ページ)と言うことを持ち出して、「文証では日蓮の法門はわからないのだ」とする議論です。 『三三蔵祈雨事』は確かに大石寺現存の真蹟(三位日順の写本も現存)ですが、この引用部の前には明確に「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず」(同ページ)と書いてあるのです。つまり日蓮は自身の教説の正統性を述べるために「道理と証文」をきちんと示したことになります。決して文証を蔑ろにしてよいということではありませんし