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なぜ興福寺は中世大和の支配者となったのか~大和武士の興亡(1) - 大和徒然草子
日本の歴史で「中世」といえば、12世紀末の鎌倉時代から16世紀後半の戦国時代まで、おおよそ鎌倉幕府、... 日本の歴史で「中世」といえば、12世紀末の鎌倉時代から16世紀後半の戦国時代まで、おおよそ鎌倉幕府、室町幕府が全国に守護を置いて武士による支配が全国的に進んだ時代です。 そんな中、全国で唯一幕府機関による支配を寄せ付けず、守護が設置されなかったのが、現在の奈良県・大和国でした。 大和国は仏教勢力、とりわけ興福寺の力が強く、守護・地頭がごく一部を除いて設置されなかったと広く知られていますが、武士が存在しなかったのかといえば、全くそんなことはありません。 特に、鎌倉時代末期から南北朝・室町時代にかけて大和の武士団の活動は活発で、大和国では全国的にも早い段階で戦国の混乱期を迎え、京都に近いこともあって大和の武士たちは中央政局とも深く影響し合う存在でした。 中世の奈良をより深く楽しめる、他の国とはちょっと違う大和武士の世界をご紹介します。 興福寺による大和支配の始まり 治承・寿永の乱と大和守護 大
2023/05/12 リンク