カメキチの目 先に「他でもあり得た」といったけれど、 それは自分が自分であった必然性はないということだと茂木さんは述べていた。 彼(彼女)とめぐり会っていなく、他の彼(彼女)といっしょになっていたかもしれない。あの学校に行っていなくこっちの学校へ、この会社に就職していず、あっちの会社にいっていたかもわからない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー その際、私が他の誰かでもあり得たとき、その誰かと私は、同じように人として尊重されなければならない。 彼(彼女)と私は「等価」なのである。対等である。 つまり、「もし私がAさんだったなら…」 Aさんの気持ち、立場をていねいに想わなければいけないということだろう。 茂木さんは書いている。 「…このような仮想の背景にあるのは、他人にも自分と同じようにうち震える意識があるという前提である。『今、ここ』に自分がいるという逃れようのない思い。