文化と考察に関するkagurakanonのブックマーク (11)

  • テキストサイトの歴史 < 佐倉葉ウェブ文化研究室

    ▼目次 ■1.序文 ■2.1995年~1996年 テキストサイト発生前夜 ◆雑文サイトの登場、◆『ReadMe!JAPAN』の開設 ■3.1997年~1998年 原始テキストサイトの誕生 ◆ゲーム論評サイトが人気に、◆コジャレ系、◆雑文祭の開催、◆『ホソキンズ ルゥム』によるサイト批評開始 ■4.1999年~2000年 テキストサイトの形、出来上がる ◆『ろじっくぱらだいす』の登場と痛い系の活況 ―ゲーム論評サイトの系譜―、◆ライト日記系 ―コジャレ系の系譜―、◆テキスレ立つ ■5.2001年 テキストサイトブーム ◆『侍魂』の登場、◆『ちゆ12歳』の登場(VNI系)、◆テキストサイトブーム ―テキストサイトの活況と模倣サイトの大量発生―、◆アクセス至上主義 ―形を変えつつもテキストサイトブーム期からSNSの時代まで続く奇病― 、◆『斬鉄剣』vs『無題』、◆アクセスアップ論・テキストサイト

  • 「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」まとめ

    みこと様のTWEETをふと目にし、私的にまとめてみました。 好きな物を否定されると、自分の感性や自分の存在その物すら否定された気分になる。ままあることです。 追記:関連事項として次のまとめも参照してください。 「私が大好きなアニメを、さらに好きになった理由」http://togetter.com/li/945501 「好きなアニメを友達に批判されたときの正しい対応」http://togetter.com/li/945546

    「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」まとめ
  • エヴァQと旧世紀版のテーマの相違について

    エヴァQを今更観て考察を色々読みふけっていたのだけれども、新用語の定義をうんうん唸って考察しているページばかりで、作品のテーマというか結局庵野はこれで何が言いたいわけ?というところを誰も言及していないので自分で書く。 ※追記(2016/4/25):はてな内外からたくさんの反響を頂いて驚いた。投稿後、考えが変わったところもある(特に震災の影響を見逃していたこと、ヴィレの分離の意味について)のだけれど、もう一度全部見直して加筆修正する時間が取れない。近いうちに頑張りたい(ここ見てる人も少ないだろうが)。 TV&旧劇(旧世紀版)のテーマ新劇場版のテーマを考察するにあたって、まず旧世紀版のテーマを確認しておきたい。 結論から言えば、旧世紀版の中心テーマは(1)組織上位の命令とあれば人殺しさえやってしまう人間の悪辣さ、(2)若者を自らのエゴの実現のために利用する大人の悪辣さ、(3)自分の価値を見出せ

    エヴァQと旧世紀版のテーマの相違について
  • 青春期の終わり「イエスタデイをうたって」11巻 | フラン☆Skin

  • 感想 車田正美は歌舞伎なのか 島国大和のド畜生

    ちょっと仕事が立て込んでおり、自宅仕事しながらゆるく見るのにちょうどいいアニメとして聖闘士星矢があり、バンダイチャンネルの罠にハマって無料なのでずっと流していた。 ファン的に星矢に詳しい人がわりと身近におり、いろいろ説明も聞いたが、自分自身は車田ファンというわけではなく、星矢もそれほど詳しくない。12宮偏は漫画で読んでアニメも少し見たが、それ以外は話の順番もいい加減にしかわからない。 そんな人間が車田を語ってどうするかという話だが、濃い人の語りは一般人には届きにくいので、素人が語るのも面白かろうというアレである。 ■車田正美は歌舞伎なのか 自分が若かりし頃。 週刊少年ジャンプ紙で、毎週毎週同じことをやっているようにしか見えないマンガがあった。 それは『風魔の小次郎』である。(え。全6巻なの!? 買うか。) 何かといえばブチヌキか見開きでバーンと学生服男子が見栄を切っている。よくわからぬ荒地

    kagurakanon
    kagurakanon 2015/09/17
    聖闘士星矢的な様式美は幽遊白書、るろうに剣心辺りが流れを汲んで今のBLEACHに至っていると思う。
  • 『エスパー魔美』の名言は、批判を忘れておしまいにしようという主張ではない - 法華狼の日記

    表現の自由から批判の自由が話題になる時、よく『エスパー魔美』から引用される頁がある。「くたばれ評論家」で、主人公と父親が会話する場面だ*1。 公表した表現が批判されることを覚悟すべきこと。批判することも反発しかえすことも自由であること。 そうした表現の自由にまつわる主張が、表現者である父親の人格とともに描かれ、この頁だけでも普遍性をもっている。 しかし、この頁だけがひとりあるきしていることは残念だ*2。 物語が知られていないのはしかたないとしても、書かれていない主張が読みとられることまでいいとは思えない。描かれているのは絵画への批判なのに、政府や司法への抗議と同一視する主張すらある。 誰が靖国に英霊を公表したのか - 法華狼の日記 そのように批判を自由にさせることと抗議を放置することを混同してしまえば、とるべき責任まで消されてしまう。 まず、父親は「おしまい!!」といっているが、批判を単純

    『エスパー魔美』の名言は、批判を忘れておしまいにしようという主張ではない - 法華狼の日記
  • 「試験に出る」という価値基準 | ブログ運営のためのブログ運営

    最近神経症という言葉をほとんど聞かなくなった。DSMの用語(たとえば強迫性障害)が使われるようになったというのもあるが、そもそも神経症自体が減っていると思われる。神経症とは、真面目な人間がさらに真面目になろうとする力学で発生する。一昔前は、真面目であればあるほど望ましいという風潮があったのだ。今日では真面目さより温厚さが評価される。真面目さというのは、頑固さ・気性の激しさ・思い込みの激しさ・視野の狭さを含んでいるので、今日では忌避される。今日では、真面目な人間は、その真面目さの度合いを下げることが求められ、空気を読んで柔軟に物事を見るように努力する。それによって厳格さは低減することになるから、厳格さによって発病する神経症にもなりづらい。われわれはそういう時代の価値基準に従って存在しているのである。 現世に生きるわれわれ空蝉は他人から評価されるために生きているのである。それにより時代に取り込

  • 処女崇拝と田山花袋「蒲団」 | ブログ運営のためのブログ運営

    田山花袋の「蒲団」は著作権が切れていて無料であるが、ほとんど読んでいる人がいないように思える。「蒲団」は1907年(明治40年)に発表された作品である。ごく普通に読みやすく面白い小説であり、名作と呼んで差し支えない。田山花袋の経験そのものを描いており、モデルの人物も神戸女学院を退学して東京に出てきて田山花袋に師事している。「蒲団」の主人公は古臭いおっさんであり、ヒロインは新時代のハイカラな少女である。主人公の細君の古臭さに対して、このヒロインはとても鮮烈な新しさを持っているのだ。 尠くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。 昔の恋人――今の細君。 曽ては恋人には相違なかったが、今は時勢が移り変った。 四五年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪、海老茶袴、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった。 この世の中に、旧式の丸髷、泥鴨のような歩き振、温順と貞節とより他に何

  • 90年代って肉食系最低みたいな風潮が普通だったよね

    今の若い人はどうかしらないけどバブル~バブル残滓世代(氷河期世代の尻尾の尻尾、いま30ぐらい?)までは 男性が滅茶苦茶言われてた印象がある。 特にメディアで。 それが現実にも侵して上位層以外の男性が恋愛文化全般にネガティブな印象持ったり 恋愛や女性にもやーっとした敵意を表明しだしたりいわゆる「非モテ」みたいな言論もその流れだったような。 俺は今年で35でバブル期といえば中学生だったんだけど、言ってる時代の雰囲気みたいなものは分かる。 ただ「敵意」っていう感じではなくて、マスコミで語られてる「恋愛」なるものが非常に薄っぺらでかつ、 それを利用して儲けようという金の匂いがやたらするっていう代物で、 なんか自分は全然興味のない空虚なブームみたいな印象だったんで妙な抵抗感はあった。 ちなみになぜかあまり指摘されることがないんだけど、90年代って「肉系の男なんて最低!」みたいな風潮が普通で、 9

    90年代って肉食系最低みたいな風潮が普通だったよね
  • なぜ中国の現場力は、日本より著しく低いのか

    前回は中国のトイレはなぜ汚いのかについて書いた。今回は、日中国の現場力の差について、分析をして見たい。 技術に対する日中の「アプローチの違い」とは 私の友人にレアメタルの加工技術の専門家がいる。彼は、某大手企業で、加工技術の精度をあげることに長年、邁進してきた。 加工技術の肝は、パテントや論文で説明できるものではなく、実は「結局は個人的に極めたノウハウ」が決め手になる。彼の悩みは、技術移転の契約をして、その「ノウハウ」を中国企業に伝えようと思っても、なかなか伝わらないことだという。 では、なぜ伝わりにくいのだろうか。彼我の先端技術力に差があるからだろうか。ノーベル賞こそとっていないが、いまや中国の先端技術は一見すると、日のそれを上回るものも、大いにありそうだ。だが、現場となると、てんでだめなのだ。それをもって中国技術レベルは、「着眼一流、着手三流」と呼ばれている。 例えば、日の研

    なぜ中国の現場力は、日本より著しく低いのか
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