過去から現代、未来までを現代風デザインのマップで。
神奈川県には歴史に彩られた文化財や名所・旧跡、施設が多く残っています。ご一緒に、四季折々に彩られた神奈川の歴史探訪に出かけましょう! ●主な更新履歴● ・2024.04.12 4月実施「鎌倉文化人の足跡を巡る」の実施の様子を掲載 ・2024.03.28 3月実施「春の足慣らし!古道・岡津道を巡る」の実施の様子を掲載 ・2024.03.26 6月実施「浦賀道と三崎道の分岐の村・・・」のスライド写真とコース紹介動画を掲載 【企画中のイベントご案内】 ■2024年上期実施コースを企画しましたのでご案内します。 ・1月実施コース(終了しました) 【旧東海道戸塚宿を歩く】 《コース紹介動画》 https://www.youtube.com/watch?v=hRKsKc5B0Fk ・2月実施コース(終了しました) 【相模湾の魚を運んだ魚荷道を歩く ~逗子から田浦へ~】 《コース紹介動画》 https:
広重江漢 東海道五十三次 広重五十三次にはモデルがあった ! 新発見の司馬江漢「東海道画帖」との比較で 広重五十三次の謎がすべて解けた。
1587年、男女子ども合わせて100名以上が船で英国から米ノースカロライナに渡った。新しい植民地を建設するためだ。3年後、彼らの姿は消えており、後にはわずかな手がかりだけが残されていた。(PHOTOGRAPH BY MARK THIESSEN, NATIONAL GEOGRAPHIC) 米ノースカロライナ州で最近発掘された陶器の破片は、英国から初めて米大陸に入植した悲運の「消えた入植者たち」が使っていたものだった。そんな大胆な主張が、ある謎をめぐる長年の議論に新たな火をつけた。1587年、ノースカロライナのロアノーク島に残された男女子ども合わせて115名に、いったい何が起こったのかという謎だ。(参考記事:「消えた16世紀の入植者、115人の影を探して」) ロアノーク島から西へ80キロ、アルベマール湾を見下ろす断崖の上で、「ファースト・コロニー基金」の調査チームは陶器を大量に発見した。英国製
1830年の江戸時代にあった鎖国中の日本・徳島県牟岐浦に異国船が漂着していたことを示す水彩画についてアマチュア歴史家が調査した結果、漂着した船はオーストラリアで船を拿捕して逃走していた海賊だったことが判明しました。 Australian convict pirates in Japan: evidence of 1830 voyage unearthed | Australia news | The Guardian https://www.theguardian.com/australia-news/2017/may/28/australian-convict-pirates-in-japan-evidence-of-1830-voyage-unearthed 日本で英語教師として働くニック・ラッセルさんは、アマチュアの歴史家でもあり、2014年に徳島県立文書館のウェブサイトでイギリス国
晩酌のアテに領土変遷の動画をどうぞ 動画サイトには歴史上の領土変遷の動画がたくさん上がっています。 戦争や内戦で刻々と領土が変化していく様子を見るのは楽しいものです。 「こんなもん、いつ見るんだよ」と問われると「そりゃ、酒飲みながら見るんですよ」と答えます。 夜中にダラダラ酒を飲みながら見ると実に楽しくて、酒が進みすぎます。 1. 世界大戦 大陸規模で領土の奪い合いを繰り広げる世界大戦中の動画は、とにかく規模がでかく、ダイナミックな戦局の動きがひと目で分かり大変人気があります。 1-1. 太平洋戦争(1941年12月8日〜1945年8月15日) www.youtube.com 不動の人気を誇る太平洋戦争。 日本軍の開戦当初の南への拡大の勢いは凄いですが、こう俯瞰してみたら北が本当にガラ空きだったことが分かります。 1-2. 第二次世界大戦 欧州戦線(1939年9月2日〜1945年5月) 東
「攻め込んで逆襲してやんよ!」と意気込んだものの……文永の役でかなりの被害を出したことを受け、鎌倉幕府は九州沿岸の防備を固めることにしました。 どんな感じだったかというと、教科書でもおなじみ「蒙古襲来絵詞」の有名な場面・鳥飼潟の戦い(”てつはう”をぶっ放されてるアレ)の通りです。 文永の役の時点で「他国から攻め込まれる」状態だったわけですから、それまでにやっておいて然るべきことでしたけどね……一般人の捕虜もかなり残虐な仕打ちを受けていますし。 実は、文永の役と弘安の役の間に鎌倉幕府は「こっちから高麗(朝鮮)に攻め込んで逆襲してやんよ!」という計画を立てたこともありました。 が、それを突然中止して石塁建設にあたっています。 一説には、石塁を築くための費用と人員でカッツカツになってしまったためだとか……。 何はともあれ、文永の役で少なからぬ犠牲を出した九州諸国の御家人は、石塁建設に励みました。
暇つぶし&英語の勉強にぜひどうぞ このブログは歴史本やウェブの歴史ネタの情報を引っ張ってきて、切り貼り編集して記事にしているのですが、海外の歴史サイトの情報が溜まってきたので、今回ご紹介したいと思います。 手元にはこの倍くらいあるのですが、読み物として面白くて、比較的読みやすいものを選びました。 年末年始の暇なときや、通勤時間の英語の勉強などにご利用なされてはいかがでしょうか。 1. HISTORY.com 24時間365日歴史のことを放送する「ヒストリーチャンネル」のウェブサイト。 放映予定の番組情報のほか、ウェブだけのオリジナル記事もあります。 本格的な歴史好きも、ライトな層も楽しめる記事がたくさんです。 中心はアメリカ&ヨーロッパですが、その他の地域も扱っています。 History.com — American & World History 2. HISTORYNET HISTOR
※随時更新(2020/4/25 最新16訂: 京大の淡輪文書、佐賀県立図書館を追加)。情報募集中! 「信長の印章ってどんな感じだっけ?」 「あの武将の花押が見てみたいなあ」 「本の図版に使う古文書を探してるんだけど」 そんなお悩み、ウェブで解決しましょう。ネット上で見れる中世古文書のデータベースをまとめてみました! ※画像の転載等の利用については、各DB内の規定に従ってください。 東寺百合文書WEB より、永禄11年9月日織田信長禁制。当時信長の官途は弾正忠。印銘は「天下布武」。 ※東寺百合文書WEBのサイトポリシーに基づき本画像は転載されています。 公共機関 東寺百合文書WEB (京都府立総合資料館) 古文書DAの王者。所蔵の「東寺百合文書」約25000通を全部公開。一部釈文あり。利用は自由(CC-BY)。 新日本古典籍総合データベース 国文学研究資料館を中心とする諸機関の古典籍画像が公
きのうのエントリー「飛鳥の天皇たちの墓周辺がにわかに騒がしくなった理由【安易すぐるイラストですらすら分かる優しすぎる古墳の歴史】」が割と好評だったので、さらに安易にこれまでの古墳時代からみエントリーをひたすら再掲してまとめにしてみました。 古墳ってお墓だったの?こわーっ 古墳というのは、とある人間を「カリスマ化」していくこと。そのためには平等的な社会からリーダーシップを尊重する社会になっていく前段階があります。それが弥生時代です。 弥生人の「いつ変わるの?今でしょ!」の決断。銅鐸をリサイクルして槍を作った理由とは - 歴史ニュースウォーカー その後、古墳時代になるわけですが、古墳というのは実はお墓です!ドン!あっ知ってた? 戦国時代でも江戸時代でも、お墓が主役になる時代ってなかなかないですよね。 かつて日本にはゾンビがいた!復活する死者をとめる遺族たちの奮闘が怖すぎる(当ブログ最人気記事)
ほとんどの日本人が「645年」と答えるであろう「大化の改新」は、“蒸し米で祝おう”などと覚えたが、今の教科書では、646年の改新の詔から始まる政治改革に書き換わっている。だが、近年では、大化の改新すらなかったとする説が物議を醸しているのだ。 大化の改新を簡単におさらいすると、645年に権勢を誇っていた蘇我入鹿、蝦夷(えみし)親子を中大兄王子(天智天皇)と中臣鎌足が誅殺した「乙巳(いつし)の変」が起こり、直後に即位した孝徳天皇が「改新の詔」を発令し、公地公民制など律令国家の礎を築いたとするもの。 これがなかったとはどういうことか。大化の改新を否定する立命館大学の山尾幸久名誉教授が語る。 「『日本書紀』の孝徳紀には645〜647年、天皇が11の詔を下したとあります。漢字の音訓が混じった和化漢文で書かれ、群臣の前で読み上げたとされています。しかし、和化漢文が一般化するのは670年ごろのこと
安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂(へんさん)所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレス
弥生時代から古墳時代へと移り変わる境目というのは、「卑弥呼」「邪馬台国」の登場。そして文字通り「古墳」の登場、ということになっています。 でも、古墳というのは、ぶっちゃけ弥生時代後半からすでにあります。 弥生時代の「古墳」(あえて分けて「弥生墳丘墓」と呼んでいる)がどんどん大きくなって、「箸墓古墳」(「卑弥呼の墓」箸墓の被葬者はエクスタシーを感じながらトランスするちょっとあれな姫だった)の前方後円墳ができたことをもって、のちの学者たちが「これをもって古墳時代」と線引きしたのです。 卑弥呼も、そのあとの男王も、松本伊代(イヨ)も、別に「うちらから古墳時代だぜぇ」と思っていたわけではありません。 じゃあ、なにが起きたのか?というと、 大宗教改革があったのです。 キリスト教からイスラム教へと改宗するくらいの勢いでの変化です。 ではどんなことがあったでしょうか? 具体的には、銅鐸という鐘を使ってい
現在の横浜市で英国人が薩摩藩士に殺傷され幕末日本に大きな影響を与えた「生麦事件」から今年で150年。落命したチャールズ・レノックス・リチャードソン(1833〜62)が母国の家族に宛てた手紙が19日から、同市中区の横浜開港資料館で初公開される。日本への憧れや訪問時の感動がつづられ、これまで知られていなかった人物像が浮かぶ。【松倉佑輔】 リチャードソンは1853年に上海に渡り、生糸取引や不動産売買に従事。62年7月、かねて興味のあった日本を訪れ、2カ月後に事件に遭った。 公開されるのは日本に言及した18通。上海から父親に宛てた54年12月の手紙には「日本は黄金から(防虫剤などに使われる)しょうのうに至るまで豊富。大きな貿易国となるだろう」と書かれ、その後も収集した日本刀の価値を力説する手紙を送っている。 横浜からの発信は62年9月3日付の1通。「私が住んだ国々の中で最もすばらしい国で、丘や海岸
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