おはようございます。 『道』 アントニオ猪木 この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ ※退社して、個人タクシーを開業を控える私にはとても沁みます。
アントニオ猪木さんのYouTubeチャンネルで10月1日、「最期の言葉」と題された動画が公開されました。猪木さんは10月1日に79歳で死去。動画はその10日前の9月21日に撮影されたものとなります。 動画が取得できませんでした |アントニオ猪木「最期の言葉」 動画は、衰弱した様子でベッドへ横たわる猪木さんの姿でスタート。助け上げられて何とか上体を起こした猪木さんの滑舌がはっきりせず、意味を把握しにくい場面も多々ありましたが、そうした箇所もカットせずそのまま収録。 衰弱した様子の猪木さん(画像はYouTubeから) 猪木さんは「別にやりたくないよ。やりたくないけどみんなやればいいじゃん」と、YouTubeの活動を本格的に再開したいというスタッフの希望に病状もあってか消極的に返答。「何もない」「何の欲もない。金銭欲なのか女なのか、いろいろ。そういう生きてること自体が何であるか」「毎日毎日この3
長期入院中の“燃える闘魂”アントニオ猪木氏(78)が腸捻転で緊急手術を受けていたことが11日、分かった。腰のリハビリを続けていたものの、体調が悪化し、5月中旬に都内の病院で手術を受けた。現在は回復傾向にあり、この日、猪木氏は電話でコメントを寄せ、復活への意欲をにじませた。体重は激減しているが、「もうちょっとで俺も元気になる」と退院を目標に前を向いた。 【動画】ほっそりするも元気な表情…5月に撮影されたアントニオ猪木氏の姿 かつて手術した腰の悪化で、1月から入院している猪木氏が、大きな試練を乗り越えていた。関係者によると、猪木氏は腸捻転を起こし、都内の病院で緊急手術を行った。手術は無事に成功し、現在の容態は安定しているという。 1月からの入院期間は途中、転院を挟みながら、半年に及ぶ。自身のYouTube「アントニオ猪木『最後の闘魂』」は更新を継続し、ベッドの上からパジャマ姿で近況を報告してい
「モハメド・アリとの世紀の一戦」「BI砲が復活した夢のオールスター戦」「第1回IWGPで起きた舌出し失神事件」「マサ斎藤との巌流島決戦」「キューバのカストロ議長との会談」「イラクの邦人人質解放」「北朝鮮で開催された平和の祭典」――。アントニオ猪木氏を50年間撮り続けたカメラマン・原悦生さんの著書『「猪木」』から一部抜粋し、プロレスを通じた平和活動に挑んできた猪木氏がソ連の柔道家やアマレス選手を東京ドームのリングに上げ、日米ソ3カ国対抗戦を実現させるまでの経緯を紹介します。 ソ連にプロレスラーを誕生させるプラン この頃、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ書記長はペレストロイカやグラスノスチといった政策を掲げて、民主主義への移行、情報公開を推し進めていた。 そんな中、1988年に猪木はソ連にプロレスラーを誕生させて、日・米・ソで戦うというプランを思いつく。また、映画『ロッキー』のストーリーの
おはようございます 前回の記事も沢山の方に見てもらえて嬉しかったです 演出と出目の関係で1確などの面白い面もあったのですが、機械割が高いからと言ってすべての台が、面白いとは限りませんね;; 今回紹介する台は、 4号機の思い出「アントニオ猪木という名のパチスロ機」 ここから思い出 4号機の思い出「アントニオ猪木という名のパチスロ機」 アントニオ猪木という名のパチスロ機は、2002年に平和から発売されました 今でも沢山のファンがいる元プロレスラーアントニオ猪木さんのパチスロ機ですね キャッチコピーの「まよわず打てよ、打てばわかるさ!」は、かなりインパクトがありました! ボーナス(BIG+REG)とAT闘魂チャンスで出玉を増やしていくタイプの台でしたが、その性能はかなり尖ったものとなってましたね AT闘魂チャンスの突入条件として通常時の純ハズレ・天井・BIG中の強チャンス目・シングルボーナスの押
10月1日に逝去した名レスラー、アントニオ猪木。1970年代、新日本プロレスと空手の極真会館の“二大勢力”によって牽引された格闘技ブームは、猪木出場の“ある試合”によってフィナーレを迎えた。『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス刊)より、「1980 昭和格闘技ブームのクライマックス 殺気に満ちた猪木vs熊殺しウィリー」の章を抜粋して掲載する。“最強”同士が激突した一戦は、いかにして実現したのか――。《全2回の前編/後編につづく》 2000年代、日本で格闘技ブームが巻き起こった。K-1やPRIDEが人気を博し、大晦日には紅白の向こうを張って、民放テレビ局がこぞって格闘技番組を放送していた。しかし70年代後半、それよりも遥かに殺気に満ちた格闘技ブームがあったことを、昭和のプロレスファンなら覚えていることだろう。 その70年代格闘技ブームの牽引したのが、“燃える闘魂”アントニオ猪
吉田豪さんが2022年10月17日放送のTBSラジオ『アフター6ジャンクション』の中でアントニオ猪木さんを追悼していました。 (宇多丸)この時間のゲストはプロ所評価・プロインタビュアーの吉田豪さんです。ということで今日はアントニオ猪木さんのお話ということで。よろしくします。 (吉田豪)はいはい。お願いします。 (宇多丸)お亡くなりになられて。79歳、まだまだお若い感じだけれども。吉田さんにとって、こんなこんな短い時間に入りきるのかということですけど。ぜひよろしくお願います。 (吉田豪)はい。でも本当に想像以上の喪失感というか。本当、いつでもどんな時でも「こういう時、猪木ならどうするか?」みたいなことを考えて生きてきた気がするんですよね。だから本当、全然関係ない話題をやってる時でも、なにかというと猪木の引用というか、そんなことばっかりやってきたので。ちょっと、ものすごいショックは受けてるんで
元プロレスラーのアントニオ猪木さんが亡くなったことについて、海外のメディアも「日本のプロレス界の大物が死去した」などと伝え、功績をたたえています。 このうち、ロイター通信は、アントニオ猪木さんについて、日本のプロレス界の大物だとしたうえで「1976年にボクシングのモハメド・アリと行った試合は『世紀の一戦』と呼ばれ世界的に注目された」などと伝えました。 また、アメリカに拠点を置く国際的なプロレス団体の「ワールド・レスリング・エンターテインメント」は「スポーツエンターテインメントの世界で最も尊敬される人物の1人であり、正真正銘のレジェンドだ」とたたえました。 一方、猪木さんがたびたび訪れていたというパキスタンでは、1976年に国民的英雄のレスラー、アクラム・ペールワンさんと対戦したことでも広く知られています。 シャリフ首相も猪木さんと撮影した写真を自身のSNSに投稿し「伝説的なレスラーの死去を
こんな表紙見せらたら、そりゃ買わなしゃあないです。 とりあえずアントニオ猪木さんとオカダ・カズチカ選手の対談を読んでから、楽天マガジンでもどんな感じかと思ってみてみたら、肝心の猪木 vs オカダがありません。ビックリしました。 サブスクリプションで読んでても買うべきときは買わなければいけないということです。 ということで、その猪木 vs オカダの感想を書きます。 先に結論から書きますと最高でした。猪木さんと真っ向勝負やれるのは現役ではオカダ選手しかいないとすら思わせるものでした。 全新日ファンは買うべき雑誌です。 出典:Sports Graphic Number 1006「失礼ですけど」で踏み込むオカダオカダ選手は猪木さんの現役時代はもちろん、たぶん練習を見てもらったということもないでしょうから、全然威圧されていないのが面白かったです。 たぶん、いちばん有名な新日のOBくらいの感覚なんじゃ
6月19日、東京ドームで開催された“キックボクシング史上最大のイベント”『THE MATCH 2022』。メインイベントで那須川天心と武尊というスーパースター同士の対戦がついに実現したインパクトは凄まじく、東京ドームが超満員札止めになっただけでなく、独占ライブ配信された『ABEMA PPV ONLINE LIVE』の視聴チケットは過去最高の50万件を突破。大会翌日に急きょ実施された天心vs武尊のノーカット無料放送もABEMAの1時間番組として過去最高の視聴者数を記録するなど、格闘技の持つポテンシャルの高さと底力を見せつけるかたちとなった。 9月にはRIZINのトップMMAファイター朝倉未来とボクシング元世界5階級制覇王者フロイド・メイウェザーの一戦も決定(ルール他、詳細は後日発表)。格闘技界はメガファイトが続くが、マット界の歴史を振り返ると、世間を巻き込んだ史上最大の一戦と言えば、やはり1
元プロレスラーで元参院議員のアントニオ猪木さんが6月19日、YouTubeチャンネル「最後の闘魂」を更新。度重なる身体の不調で長期治療を余儀なくされている状況を「生き地獄」だとしています。 腰の治療で1月から入院している猪木さん。長期化するベッドでの生活に疲れ果て、「もういいだろう、楽にさせてくれよ」とこぼしたこともありましたが、大勢のファンから寄せられる応援に支えられ、治療がもう一歩のところまで完了。 しかし、1週間前となる12日には、腸捻転を引き起こして再入院となってしまったことを告白しつつ、「1日も早く皆さんにまた『元気ですか』を送りたいと思います」と視聴者に約束していました。 再入院時の猪木さん(画像はYouTubeチャンネル「最後の闘魂」から) 猪木さんはこの日のYouTube動画で、軽い屈伸運動とストレッチをリハビリでこなしたと報告。「今回、手も来ちゃったのがちょっとショックだ
くぼた・まさき/テレビ情報番組制作、週刊誌記者、新聞記者、月刊誌編集者を経て現在はノンフィクションライターとして週刊誌や月刊誌へ寄稿する傍ら、報道対策アドバイザーとしても活動。これまで200件以上の広報コンサルティングやメディアトレーニング(取材対応トレーニング)を行う。 著書は日本の政治や企業の広報戦略をテーマにした『スピンドクター "モミ消しのプロ"が駆使する「情報操作」の技術』(講談社α文庫)など。『14階段――検証 新潟少女9年2カ月監禁事件』(小学館)で第12回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。 新刊『潜入 旧統一教会 「解散命令請求」 取材NG最深部の全貌』が発売中。 情報戦の裏側 できれば起きてほしくない「不祥事」だが、起きてしまった後でも正しい広報戦略さえ取れば、傷を最小限に済ませることができる。企業不祥事はもちろん、政治家の選挙戦略、芸能人の不倫ネタまで、あらゆる事
2022年10月1日。ひとりの国民的スーパースターがこの世を去った。アントニオ猪木―。プロレスラーの枠にとどまらない、希代のエンターテイナーであった彼の名は、世代の枠を超え、誰しもの耳に轟いていたに違いない。「バカヤロー!」「元気があれば何でもできる」。猪木が放った名言の数々に叱咤され、勇気を貰った人々も多いのではないだろうか? あの日から1年、猪木が波乱万丈の人生を通じて伝えたかったメッセージを「さがす」ための 1本のドキュメンタリーフィルムが誕生した。生前の猪木の雄姿を捉えた貴重なアーカイブ映像やスチールの数々。猪木から多大な影響を受けたプロレスラーや各界の著名人たちが、猪木の偉大な足跡を辿る旅に出るドキュメンタリーパートをメインに、猪木から力を貰った名もなき市井の男の半生をも情感豊かにドラマとして描き出す。さらに、主題歌とナレーションを担当するのは、プロレスファンであり、猪木をリスペ
猪木氏が縁を切った「3人の盟友」 「(猪木)会長は数年前、『俺の手帳には3人、連絡先を消した奴がいる』と話していました」 こう語るのは、かつてアントニオ猪木と蜜月の関係にあった元プロレス関係者である。 「私はそのとき、それが誰なのかを本人に詮索することはできませんでしたが、その後、同じ話を別の関係者からも聞き、猪木さんが“縁を切った”という3人が誰だったのかを知ることになりました」 昭和のプロレス黄金時代を牽引し、参議院議員としても活動したアントニオ猪木(本名:猪木寛至)が10月1日、心不全のため都内の自宅で死去した。 同じ関係者が続ける。 「その3人とは、かつて伝説のモハメド・アリ戦を実現させ、“過激な仕掛け人”と呼ばれた元新日本プロレス営業本部長の新間寿さん、同じくかつて新日本プロレスで役員をつとめた永島勝司さん、そして猪木さんの支援者としては最古参の1人である大阪の浄水器メーカー、O
123da氏のツイートより 思い出したのが名古屋でIGFの打ち上げあった時にエリック・パーソンが酔っ払って猪木さんに絡んできたことがあって当然返り討ちにしたらしいんですけど、反則スレスレの知らない技を使ったとか。もしかしたら同じ技なのかも。 前田日明に反則スレスレの技を伝授してもらった https://t.co/Ppyfc2SpwE— 123da (@igf123da) 2020年8月29日 ミノワマン選手も猪木さんから首の取り方と足の取り方を教えてもらった時に、そのバリエーションの多さに驚いたという。しかも猪木さんはいとも簡単に極めることができるがミノワマン選手は全然できず悔しがってた。体型も違うし体の柔軟さも全然違うので、すぐに猪木さんのようにやるの無理だと思う。 https://t.co/7dW10HY2of— 123da (@igf123da) 2020年8月29日 当然ですが猪木
こんばんは、ブログ主です。 今朝はアントニオ猪木さんの訃報から始まりました。 大変残念です。ご冥福をお祈りしたいと思います。 元気と勇気を与えていただきました。 ありがとうございました。 お疲れさまでした。 猪木伝説は枚挙にいとまがありませんが、ブログ主の特に印象に残った例を以下に記載したいと思います。 【1976年のアントニオ猪木】より 完本 1976年のアントニオ猪木 (文春文庫) 作者:柳澤 健 文藝春秋 Amazon この年、猪木はパキスタンで地元の英雄ペールワンと対戦します。対戦前は、この試合はプロレス(結末の決められた試合を演じる)の予定でした。猪木はそのつもりでいます。しかし、対戦相手がガチンコの対戦しか受けないことを聞き、交渉担当のマネージャーを怒鳴ります。「早く行って話をつけてこい!」と。しかし、とうとうリアルファイトをやるしかなくなり、控室では怖さで震えていたとの描写が
タグ 1960sファンクパゴーヂパナマパプアニューギニアパラグアイパレスチナパンクパンデイロパーカッションヒットチャートヒップホップビッグバンドピアノピアノトリオファドフィリピンバーレーンフィンランドフォークフュージョンフラメンコフランスフリューゲルホルンフリージャズフルートブラジルブラジル音楽ブルガリアブルースプエルトリコプレイリストパキスタンバンドリンベトナムニュージーランドチベットチュニジアチューバチリチルアウトディジュリドゥデンマークトランペットトルコトロンボーンドイツドラムスナイジェリアナミビアニュースバンドネオンネオソウルノルウェーハイチハイライフハワイハンガリーハンマーダルシマーハープハーモニカバイアォンバヌアツバハマバルカン音楽バンジョープログレベナンチェロ写真ルクセンブルクルーマニアレアグルーヴレゲエレバノンレユニオンロシアロックヴァイオリンヴィオラ・ダ・ガンバヴィブラフ
朝日新聞は国立国会図書館の国会会議録検索システムに今年5月31日時点で収録されていた2013年7月21日以降のデータをダウンロード。グーグルが提供するテキスト分析サービス「Natural Language API」を利用し、会議録から普通・固有名詞を抜き出して、専門家の協力を得て独自の分析をした。 猪木氏は任期6年間で、外交防衛委員会を中心に150回近く質問に立った。 この分析によると猪木氏が顕著に用いた単語の上位20は、日本▽北朝鮮▽話▽元気▽辺▽中国▽大統領▽アメリカ▽人▽ロシア▽世界▽問題▽中▽ブラジル▽次▽質問▽テレビ▽国連▽報道▽対話――だった。 結果について、猪木氏は「(対話が)難しい国でもスポーツ外交から入って、農業問題や水問題などに広げた」と議員活動を振り返った。 朝日新聞は国会会議録と政治資金収支報告書を分析したデジタル企画「ポリティペディア」(https://www.a
40年にわたってアントニオ猪木との親交を続けてきた作家・村松友視氏による追悼文の後篇を、前篇に引き続いてお届けする。1988年、参院選出馬を発表した猪木に、村松氏はプロレスの味方気分で反発し、落ち込んだのだが、その顛末やいかに? 一緒に出た政見放送 当時の私にとってのイノキは、もはや『私、プロレスの味方です』を書いた当時のファンとしての感触をはるかに超える存在になっていた。これは、刻々のイノキ流プロレスの変遷や、プロレスというジャンルを超えた夢への眼差しと行動力を、直接のつき合いの中で感得しつづけたあげくの私の中でのイノキ像の変貌だった。したがって、そのアントニオ猪木が、国会議員などという陳腐な額縁におさまってしまうのか……それがイノキの参院選出馬に対して反射的に湧いた感情だった。 私は、力道山があのような「事件」に遭遇することなく生きのびたなら、事業家→政治家へ……という流れに沿って政治
「格闘代理戦争」の準決勝、片方は秒殺一本勝利、片方は大激戦と、違う形のMMAの魅力を教えてくれた試合だったが、それはともかくのメモ。 実際に聞いてもらうしか手がない。開始1時間50分から、中谷優我選手の入場。 https://abema.tv/video/episode/90-1935_s1_p7 ちなみに中谷選手は、猪木と縁のある人なのだ 10月1日に死去したアントニオ猪木さん(享年79)の追悼イベント「INOKI BOM―BA―YE×巌流島in両国(猪木祭り)」(28日、東京・両国国技館)で19歳の〝闘魂継承者〟がデビュー戦を迎える。 9日の対戦カード発表会見に出席した中谷優我は「僕が格闘技が始めるきっかけとなった猪木さんの大会でデビューさせていただくことになってとても感謝しています。28日が楽しみです」と初々しくコメント。生前の猪木さんとは一緒にパラオ・イノキアイランドに足を運び、5
日本だけにとどまらず、カナダ、パキスタン、アメリカ、メキシコでも闘いを繰り広げてきた“インドの狂虎”タイガー・ジェット・シンと“燃える闘魂”アントニオ猪木。大半が反則絡みで決着がついたとは到底思えず、2人の闘いはどこまでも続くかと思われていたが、1981年6月、シンが全日本プロレスに移籍したことで、何の前触れもなく突然、終止符が打たれた。両団体による熾烈な外国人引き抜き合戦がその背景にはあったが、シンが移籍を決断した理由はなんだったのだろうか? 【蔵出し写真】アントニオ猪木のスリーパーで絞められるタイガー・ジェット・シン ――81年6月、2人の闘いは幕を閉じました。あなたが全日本に移籍したからです。なぜ、全日本に移ったんですか? シン 簡単にいえば、いろんなことが重なったから。そのなかでも一番の理由は、私が望む状況にならなかったからだ。それによってイノキを信じることができなくなったし、オフ
倍賞寛子(アントニオ猪木の娘・猪木寛子)と菅野志桜里(山尾志桜里)。 https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/941274746062217217 吉田光雄 @WORLDJAPAN 20:52 – 2017年12月14日 W不倫騒動と小林よしのり先生の推しメンとしてお馴染みの山尾志桜里議員が、ミュージカル『アニー』の菅野志桜里だということに最近ようやく気付きました。 彼女が東大生だったときにリリースされた現在入手困難な受験本『アニーの100日受験物語』(95年/ごま書房)、ボクも持ってますよ! アントニオ猪木と倍賞美津子の娘・猪木寛子と『アニー』のダブルキャストで86年にデビューした当時、彼女はまだ小学生。そして、後に東大に合格するだけあって昔から読書家だった彼女は、この本でもこんなことを語っていたわけです。 「私は小さいときから本が好きで、どんなとき
おはようございます 前回の記事も沢山の方に見てもらえて嬉しかったです 導入から暫く経っていたのですが、やっと初打ちでした やっぱり猪木シリーズの女の子は可愛い 分かってくれる人はクリックお願いします にほんブログ村 今日の記事は、前回の続きになります 今更初打ち「闘魂継承 アントニオ猪木という名のパチスロ機」後編 「引き戻しゾーン」は、要らない子 再び初代モードへ まとめ 最後に 今更初打ち「闘魂継承 アントニオ猪木という名のパチスロ機」後編 REGを引いて初代モードが終了したのですが、ここからやっと闘魂継承 アントニオ猪木という名のパチスロ機の演出を楽しむことが出来ますね ここまでの闘魂チャンスは5連チャンしてますが、6択が全然成功せず上乗せはほとんど見込めないのですが 引き戻しゾーンでの対決などで 闘魂チャンスに突入します 「絶好調ですね!」はい正にその通りです! 「引き戻しゾーン」は
今回は「ボサノヴァの巨人」と言われる アントニオ・カルロス・ジョビンを エクセルで描いた話。 偶然出来上がった「新Dot画(ぶれ)」もあげてます。 【はじめに】エクセル画ってどんなの? 2回ぎっくり腰やらかした どうせならタバコだ 「ストーン・フラワー」 エクセル画のスペック 新Dot画(ぶれ) エクセル画バーチャル額装版 【はじめに】エクセル画ってどんなの? 「エクセル画」というと エクセルのマス目に色を付けて描いていく 「ボクセルアート」、「ドットアート」を イメージする人が多いですが 自分はエクセルに搭載されている「描画ツール」から 曲線や円、四角の基本図形やフリーハンドを使いながら シートの上に線を描いて それに色を乗せて積み上げて描く方法でやってます。 こんな感じです。 エクセル画に腰を入れて描き始めてから もう10年以上たちますが ペンタブはどうも扱いづらくて ずーっとマウスを
アントニオ猪木さんは現在、アミロイドーシスという難病と闘っている。YouTubeでは病気で衰弱した姿をさらし、多くの人に衝撃を与えた。なぜ彼は闘い続けるのか。セブン‐イレブン限定書籍『最後の闘魂』(プレジデント社)より、猪木さんの思いを特別公開する――。 「猪木だから挑戦できた」わけじゃない 思えば「挑戦」ばかりの人生だった――。 ブラジル時代に、のちの師となる力道山にスカウトされて、右も左もわからぬプロレス界に飛び込んだ。常に同期のジャイアント馬場と比較されながら、アメリカで修行をした。日本プロレスを離脱して、東京プロレス入りしたものの、すぐに崩壊して白い目で見られながら日本プロレス復帰もした。 その後、新日本プロレスを旗揚げしたが、なかなか軌道に乗らなかった。世界が認めるスーパースターであるモハメド・アリとの対戦を実現したものの、世間からは酷評され、大借金も背負うことになった。政治家に
“日本プロレスの父”力道山が大相撲からプロレスに転向し、日本プロレスを立ち上げてから2023年で70年が経つ。力道山はすぐに国民的スターとなったが、1963年の殺傷事件で、39年間の太く短い生涯を終えた。しかし、力道山を取り巻く物語はこれで終わりではない──。彼には当時、結婚して1年、まだ21歳の妻・敬子がいた。元日本航空CAだった敬子はいま81歳になった。「力道山未亡人」として過ごした60年に及ぶ数奇な半生を、ノンフィクション作家の細田昌志氏が掘り起こしていく。(連載の第1回) * * * 「お車の用意は出来ております」 2022年10月1日、土曜日。 午後5時から内幸町のレストラン「アラスカ」で、イベント会社を経営する鈴木裕枝のバースデーパーティが催された。 大勢の来賓が集まった。大相撲の高安、歌手の佳山明生、タレントのマッハ文朱、東京オリンピック・パラリンピック担当大臣をつとめた櫻田
2021.04.18NEW 【特集】オリンピック出場を目指す伝説の格闘一族の末裔、世界最終予選にかける…アビッド・ハルーン(パキスタン=日体大) …来月の世界最終予選(ブルガリア)にはベストウエートの97㎏級でエントリーする予定という。「僕にはまだ実績がないけど、これからパキスタンに戻ってから精いっぱい頑張って練習し、東京オリンピックに出たい」 (略) ハルーンは、異種格闘技路線を進めていたアントニオ猪木さんが1976年にパキスタンで闘ったアクラム・ペールワンの親族として知られている。1979年に猪木さんと闘って勝利をおさめ、会場を熱狂の渦に包んだズベール・ジャラは、ハルーンの父親の兄弟、つまり叔父にあたる。 「私の一族はずっとレスリングをやっていました。僕のお父さんはやっていなかったですけどね」 1991年のジャラの急死をきっかけに、一度は途絶えたペールワン一族のレスリングの灯を再び灯す
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