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塩畑大輔の検索結果1 - 11 件 / 11件

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塩畑大輔に関するエントリは11件あります。 野球スポーツnote などが関連タグです。 人気エントリには 『新聞記者最後の日。書けなかったエピソード。|塩畑大輔』などがあります。
  • 新聞記者最後の日。書けなかったエピソード。|塩畑大輔

    記者をやっていると「書きたいけど書けない」という状況にも出くわす。 大半は「書かれる側」に配慮して、というパターン。 これは読者の皆さんにも想像はつくかもしれない。 もうひとパターンある。 それは「自分が関わりすぎていて書けない」だ。 ファンの皆さんが読みたいのはやはり、アスリート本人のエピソードだと思う。その描写に、あくまで「媒介者」でしかない記者が写り込むのは避けるべき。多くの記者がそう考えている。 ただ、記者が写り込むことによるマイナスと、書いた時のインパクトとで、後者が上回りそうな時もある。 天秤にかけて、書いた方がいいのではないか、と悩む。原稿の仕上がり直前まで、その要素を削ったり、また書き込んだり…と。 今回は書かせていただくのは、記者人生の中で最も悩んだケース。 それは新聞記者生活の最後の日のことだ。 よりによって、現場から書く最後の原稿について、僕はものすごく悩むことになっ

      新聞記者最後の日。書けなかったエピソード。|塩畑大輔
    • 「塩対応」と、震える指先と。レディー・ガガのエールはすべての人々に|塩畑大輔

      取材対象とは、できることなら「プロとプロ」としてお付き合いができればと思っている。 ただ、彼我の差をカバーしきれないほど偉大な取材対象、というのも世の中にはたくさんいる。 もちろん、そういう取材機会をちょうだいして困ることなどない。ものすごく幸運なことだ。身震いしつつ、軽くは見られないようにと、必死に気を張ってことに臨む。 ただ多少気を張ったところで…というくらいのものを、実際の取材の中で見せつけられることもある。 その日、僕は取材をさせていただいたお礼を述べると同時に、思わずへたり込んでしまった。 今回は41歳にもなっていた当時の自分が、いまさらながらにそんな体験をした話をつづらせていただきたい。 2018年12月22日。僕はラスベガスの日本料理店にいた。 久々のご挨拶を兼ねた夕食。オーナーのナカノさんは、2014年までアメリカ転戦中の石川遼プロを食事面でサポートされていた。 「懐かしい

        「塩対応」と、震える指先と。レディー・ガガのエールはすべての人々に|塩畑大輔
      • 中嶋常幸さんに"ゴルフ記者生命"を救われた日のこと。|塩畑大輔

        松山英樹プロが、マスターズで優勝をした。 多くの皆さんと同じように、テレビで見届けた。 快挙を伝える映像と相まって、胸にグッと来たのは、TBS小笠原亘アナの涙声の実況だった。 もらい泣きをしながら、ふと思った。 解説の中嶋常幸プロが、なかなかコメントをされない。 きっと、涙で言葉にならないのだろう。 そう思うと、余計に泣けてきた。 中嶋さんについては、一生忘れられないエピソードがある。 それはまさにマスターズゴルフの舞台、オーガスタナショナルゴルフクラブでのことだった。 2012年春。僕は記者人生の中で、後にも先にもないほどの苦境に直面していた。 憔悴しきって迎えた、マスターズの週。選手たちの練習ラウンドが行われていたコースを、ただふらふらと歩いていた。 肩をたたかれるまで、人が近づいてきているのにも気づけなかった。 「大丈夫か?」。そう言って、顔をのぞき込まれた。 中嶋常幸さんだった。

          中嶋常幸さんに"ゴルフ記者生命"を救われた日のこと。|塩畑大輔
        • オシムが阿部勇樹に伝えた「指導者になることを意識しながら、プレーを」 引退までの4年間、たどり着いたラストミッション(塩畑大輔)

          そう。彼はピッチを離れたこの場所で、最後まで「責務」を果たしていた。 サッカー選手・阿部勇樹、最後のミッション。その始まりは、4年前の冬だった。 阿部とオシム、久々の再会を果たしたのちに 2017年12月25日、午後8時。 成田空港第2ターミナルに、1機の旅客機が到着した。90番台の到着スポットは、入国ゲートまでかなり距離がある。長いフライトの疲れもあって、乗客たちは長い通路をフラフラと歩いていた。その間を縫うように、早足で歩く人影がひとつ。 上下黒のスウェット姿。異様なまでに膨れ上がった太ももが、足を進めるたびにリズミカルに収縮している。 阿部、当時36歳。 恩師イビチャ・オシムさんを訪ねた長旅から帰ってきたところだった。 入国手続を終え、到着ロビーに歩み出る。ドーハ国際空港での乗り継ぎで、9時間待たされたこともある。サラエボを出てからすでに、26時間がたっていた。傍らで同行者たちが、ホ

            オシムが阿部勇樹に伝えた「指導者になることを意識しながら、プレーを」 引退までの4年間、たどり着いたラストミッション(塩畑大輔)
          • 「空回りし続けな」。中村俊輔選手からの伝言|塩畑大輔

            緊急事態宣言が全面解除された。 その49日間の中では「リモート」という形が市民権を得た。 「ポストコロナのコミュニケーション」みたいな話とはまったく関係ないが、リモートという言葉で思い出すエピソードがある。 それは「コロナまん延以前」どころか、ビデオ会議システム自体が今ほどは一般的ではなかった、6年も前の話だ。 エピソードというには、あまりにも自分が関わりすぎている。ゆえに記者時代は記事にする機会はなかった。ただ、自分ひとりで抱えているのはもったいなすぎる、貴重な「リモートでの教え」だと思っている。 新聞に合ってはいなくても、noteという場には合っているような気もする。この機会につづらせていただきたい。 2014年の春。日刊スポーツのゴルフ担当記者だった僕は、アメリカ・ジョージア州のホテルで、ひとりでビールを飲んでいた。 ゴルフの4大大会のひとつ「マスターズ」開幕まであと数日。練習ラウン

              「空回りし続けな」。中村俊輔選手からの伝言|塩畑大輔
            • 早すぎる引退。「やりなおせるなら」の問いに彼は…中継ぎ投手という生き方|塩畑大輔

              その喫茶店は、ただただ静かだった。 2020年12月中旬。 その日、仕事がオフだった僕は、吉祥寺の駅前にいた。 クリスマス直前の街は、コロナ禍を忘れたようににぎわっている。 ポインセチア。クリスマスリース。赤と緑が通りを彩っていた。 人が少ない喫茶店に入り、空席ばかりの一角に席を取る。 除菌ティッシュでテーブルをざっと拭くのはもう習慣になった。いすに腰掛け、スマホのメモアプリを開く。 コピペしていたリンクから、記事に飛ぶ。 書かれていたのは、ひとりのプロ野球選手がこのオフに球団から戦力外通告を受け、引退を決意するまでの経緯だ。 数日前のこのニュースは、驚きだった。 まさか彼が、こんなに若くして人生の決断を強いられるとは…。 読み返していると、画面の上部にLINEメッセージの着信を知らせる通知が浮かびあがった。 「5分遅れます。ごめんなさい」 送り主は「Shogo」。 記事に書かれていた元・

                早すぎる引退。「やりなおせるなら」の問いに彼は…中継ぎ投手という生き方|塩畑大輔
              • 緊急事態宣言で誰もいないのに…レッズの練習ピッチがずっと美しかった理由|塩畑大輔

                「こんなにキレイなんですか!毎日練習で使っているんですよね?」 驚きと疑問をたたえた瞳が、深緑のピッチにくぎ付けになっている。 2018年6月。さいたま市にある浦和レッズのクラブハウス駐車場に、1台のスポーツカーが滑り込んだ。 降りてきたのはゴルフの石川遼プロ。親交のある柏木陽介選手との対談番組収録のために、初めて大原サッカー場を訪れた。 案内されたクラブハウス3階のテラスからは、ピッチが一望できた。 遼プロは「うわっ!」と驚きの声を上げ、目を輝かせた。 「芝、キレイすぎるでしょ!絵の具塗ったの?みたいな。ここまでキレイなことってあります?」 言うまでもなくトップゴルファー。世界中のターフを見てきたプロの「キレイだ」は、重みが違う。 「やっぱり、これはすごいよ」 ピッチレベルに降りた遼プロは、そう言って芝を踏むのをためらっていた。 そんな彼に「大丈夫ですよ」と声をかける人がいた。 「ゴルフ

                  緊急事態宣言で誰もいないのに…レッズの練習ピッチがずっと美しかった理由|塩畑大輔
                • 「応援」とは何なのか。新人記者の僕に小枝守さんが教えてくれたこと|塩畑大輔

                  今週、NHKの朝ドラ「エール」が、作品のテーマに関わる大事な局面を迎えた。 窪田正孝さん演じる主人公の作曲家・古山裕一は、早稲田大学の応援部から、あの「紺碧の空」の作曲を依頼されていた。 だがなかなか身が入らず、催促に来た応援部員たちに「応援って勝敗には関係ないんじゃないですか」と言い放ってしまう。 応援とは、なんなのか。 根源的な問いをぶつけられ、応援団員たちは思い悩む。 その姿を見ながら、僕は人生初の取材現場での出来事を思い出した。 そこでいただいた言葉は、今に至るまで、スポーツを取材する上での「指針」になっている。 2002年5月のある日、千葉は久々に晴れていた。 JR内房線の乗客はみな、額に汗をにじませている。 立ったまま資料に目を通していた僕は、木更津駅到着を知らせるアナウンスに、あわてて電車を降りた。 バスに乗り換えて20分。さらに歩いて坂を上がること10分。軽く息が上がってき

                    「応援」とは何なのか。新人記者の僕に小枝守さんが教えてくれたこと|塩畑大輔
                  • オシムさんは僕たちに「魔法」をかけて去っていった。|塩畑大輔

                    2009年1月4日。成田空港。 搭乗ゲートへと続くコンコースには、最終の搭乗案内が鳴り響いていた。 空港の係員が「そろそろ機内へ」とうながしてくる。 その場にいた僕も、気が気ではなかった。 だが、その人はかまわずに、僕に向かって語り続けた。 「選手たちに対して、言い続けてほしい」 「もっと走れ、もっと戦え、もっとリスクを冒せ、と」 決して流暢ではない英語で、懸命に話す。 それは、相手が自分の母国語を解さない、と分かっているからだ。 車椅子に乗ったその人は、元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムさん。 6年間の日本滞在を終え、自宅のあるオーストリアに戻るところだった。 ◇ 2007年11月に、オシムさんは脳梗塞で倒れていた。 10日ほどの昏睡状態の間に、代表監督を退任することが決まった。 僕はオシムさんのことを、ジェフ千葉時代から取材し続けていた。 その流れもあって、代表監督在任中にはたく

                      オシムさんは僕たちに「魔法」をかけて去っていった。|塩畑大輔
                    • 「リーグ最低の先発投手」を覆して菊池雄星が覚醒に至るまで  “MLBオールスターに出る”目標設定と「すべてをぶっ壊した」挑戦(塩畑大輔)

                      「あきらめなくて良かったなぁ、と思います。いつも支えてくれて、本当にありがとうございます」 送信元はシアトル・マリナーズの菊池雄星投手。 MLBオールスター戦の出場メンバーに選ばれたことを知らせるメッセージだった。普段なら、日本時間の夜明けを待って送信する。だが今回だけは、一刻も早く知らせたかった。知ってほしかった。続けてつづる。 「世の中に対する分かりやすいメッセージになるんじゃないかとも思う。難しい境遇にあっても、取り組み次第で乗り越えることはできる」 難しい境遇。確かにそうだった。かつて菊池は米国のメディアに、こう評されていた。 「メジャーリーグ最低の先発投手」 彼はいかにして、そこからオールスターに選出されるまでに至ったのか。 「さすがメジャーですね」「マイナーの投手だよ」

                        「リーグ最低の先発投手」を覆して菊池雄星が覚醒に至るまで  “MLBオールスターに出る”目標設定と「すべてをぶっ壊した」挑戦(塩畑大輔)
                      • どん詰まりのゴロにこそ活路あり。渡辺直人選手が明かす「野村克也さんの教え」|塩畑大輔

                        新聞記者をしていた当時は、取材対象の皆さんと食事をする機会がそれなりにあった。 個人的には、プロの記者として呼ばれているからには「メシの席の話だから書かない」というのはないと思っていた。 だから「これは読者が喜ぶだろうな、というエピソードは基本書きます」というスタンスは明かしていた。 それを相手に忘れられてはいけないから、食事の最中も「書く気満々」の姿勢は出し続ける。 いい話と思ったら、分かりやすくにじり寄って聞く。浦和レッズの柏木陽介選手などにはよく「ホンマすぐにスイッチ入るな!」とあきれられた。 そして、「本当に書きます」という意思表示も兼ねて、記事を書く前には必ずもう一度本人に取材する。 ご飯の席で聞いた話をもう一度持ち出し、その言葉の本意を確認する。 幸いにしてほとんどの選手、関係者が、記事にすること自体には同意してくれた。ただ、どうしても話を書かせてもらえなかったケースが、1つだ

                          どん詰まりのゴロにこそ活路あり。渡辺直人選手が明かす「野村克也さんの教え」|塩畑大輔
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