私は東日本大震災のあといきなり圧勝した自民党の勝ち方に何か宗教がかったメンタリティが動いた気配を感じていたのだが(天譴説めいた発言をした某政治家もいたので)、私の予想を超えたレベルで具体的に宗教団体の力に頼っていたという種明かしがなされつつある
早いもので、東日本大震災から10年が過ぎました。 かつてあの時何考えてたかが知りたくなって昔の投稿を掘ってみました。 この投稿は震災の一年後に書いた旧ブログの投稿を再編集し、冗長な文を改訂したものです。 カイロスとしての『東日本大震災』 ギリシャ語では時間を表す言葉が2つある。 クロノスとカイロスだ。 クロノス時間とは、過去から未来へと一定速度、一定方向で機械的に流れる時間。 一方でカイロス時間は、速度が変わったり、繰り返したり、逆流したり止まったりする、人間の内的時間を表す。 2011年3月11日午後2時46分から実家へたどり着くまでの午後9時50分までは、僕にとってはウンザリするほどゆっくりと、不気味に流れたカイロス時間を経験した。 それは決して大津波に飲み込まれるような致命的かつ絶望的なものではなかったが、大地震の尻尾に触れた程度の埼玉県で僕は何を見て、人々はどう行動したか。 それを
今日も遊びに来ていただきありがとうございます。 まずは、震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。 今日で東日本大震災が起こったあの日から10年がたちましたね。 ちょうど10年前は、 息子が産まれて、 息子がお昼寝から起きたので、母乳をあげながらテレビを観ようとテレビをつけると、 津波で街がのみこまれていく、 映像がパッと映り、 一瞬、何が起きたかわかりませんでした。 理解するまで時間がかかってしまいました😔 目を伏せたくなる映像ばかりで、 息子の頬に涙が落ちて、ようやく、自分自身から涙が出てることに気づきました。 自然と息子をギュッと抱きしめていました。 あの時、息子の温もりが私を癒やしてくれました。 私は、阪神・淡路大震災を経験しているので、 大地震の恐怖は、身体が覚えています。 この恐怖を、これ以上経験される方が増えないといいんですけどね。 生きれる幸せを感じながら大切
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から48日目です。今も時折り思い出す苦い日です。この日が区役所応援最後の日になりました。 3月5日(日) 今日の被災家屋再調査のペアは市土木局のK場さん。鵯越の独身寮に住んでいるという。 最初は天井の板がごっそり抜け落ちた家を調査する。一見するとひどい被害のようだが、他はどこも傷んでいない。おやじさんは大工さんだが、怪我をして現在失業中とのこと。年配の気のよさそうなおばあちゃんが、あまりに辛そうに話されるので、何とかできないかとも思ったが、結局、一部損壊の判定で納得してもらう。多少例外をつくってもよかったんじゃないか、少し厳しかったかと気になって仕方ない。 熊野町のヤンキー風のにいちゃん、いきなり文句を言い始める。家の中を見せて頂きますから、と何度もくり返し言うとようや
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から8日目です。やっとお風呂に入れました。 1月24日(火) 10時すぎに自転車で出勤する。K芝先生よりカセットボンベの差し入れ。南蛮美術館の後片付けをする。 戦前に建てられた旧館も含めて、建物には被害はほとんどなかったが、書棚が倒れたり、書架にあった図書類が散乱したりしたようだ。 美術館はしばらく休館。僕は明日から兵庫区役所に応援出務となる。 夜、再びN村先生(※前任校の同僚、先輩)より電話があり、10時頃、D本先生(※前任校の同僚)も誘い母と三人でN村先生邸に伺う。浴槽に浸かるのは、一週間ぶりだ。 震災直後の被災地でのお風呂事情です。震災直後には食べ物が、数日後には暖かい食事が、そして一週間後には入浴が必要とされました。 同じ神戸市内でも、市の北部(北区)や西部(垂
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から18日目です。解体撤去申請の受付業務を担当する。 2月3日(金) 6時半起床。7時50分区役所到着。8時45分より区役所4階で、倒壊家屋の解体撤去申請の受付業務。申請者の数は前より少しずつ減ってきた様子。 定時に昼食をとり、午後の一人目の応対が済んで次を待っていると、別の作業を頼まれた。申請書のコピーをとれとのこと。それから午後の時間帯はその作業で埋まる。これまでに受け付けた約1500人分の申請書のコピーをとった。その間、Y根氏(※本庁からの応援職員)は、解体の順番を早めて欲しいと言ってきた人と口論になる。 午後5時頃、受け付けは終了するが、その後もコピーと仕分け作業が続く。6時45分、ようやくすべてが終わり、公会堂(※兵庫区役所地階)に降りて夕食をとる。 今日は泊
今日はお休みの日ヾ(^^ ) すっかり冬で、久しぶりに寒冷地用の壁を貫通した吸排気口のある石油ストーブを点火 (これはイメージ。こんな感じになる) 何故かみんなコタツから出てストーブの周りに集まるの ホニャ~っとしていて幸せそう(#^_^#) 昨日の移動中……運転手のおじちゃんが 「ウチのかみさんに “お父さん人前で幸せって言う様になったよね” おかげで家に居ても過ごし安い( ̄0 ̄)」そうで、 「大社長って『幸せ』とか『ツイてる』って言葉を良く言うじゃないですか、私も多分その影響で幸せって言う様になったみたいで、何か起きるたびに頭の中に幸せやツイてるって言葉が浮かぶんです」って言われた。 これさ…私も影響を受けた結果なんだよね。私に影響を与えたのは「後輩社長(ひかり)」なんだ 私はあの東日本大震災で「納棺.埋葬」のバイト仕事の後日、外国人被災者の通訳ボランティアに駆り出され、そこで同じ学部
少し前のことですが、年末年始の6日間、俳句のtweetを休みました。大みそかからお正月にかけて呑んだくれる予定だったからです。そしてもちろん、呑んだくれて過ごしました。けれど、6日間まったく俳句のことを忘れてたかというと、実は一月四日からのtweetに備えて句を準備する小心者でもありました。 俳句メモ帖を振り返ってみますと、実際、俳句の下書きは元旦から始めています。元旦のうちになんとか四日にtweetする句を思いつき、一安心しました。その後さらに吞んだくれたのは言うまでもありません。その酔いの勢いに任せて二日に詠んだのは「屠蘇呑んで食ふ呑んで食ふそして寝る」という句でした。が、当然ながらこれは没。その代わりに脳裏に浮かんできたのが阪神淡路大震災当時の日々でした。 三日からは次々に震災のイメージが湧くように思い出されてきて何句も何句も詠みました。わたしにとって、あの震災はどれだけ歳月が過ぎて
次の衆議院選挙に立候補しないことを表明している立憲民主党の菅直人元総理大臣を慰労する会が開かれ、東日本大震災と原発事故の対応にあたった当時の政権幹部に謝意を伝えました。 立憲民主党の菅直人元総理大臣は去年11月「若い人にもっとチャレンジしてほしい」などとして、次の衆議院選挙に立候補しないことを表明しました。 15日夜、東京都内のホテルで菅氏の慰労会が開かれ、菅政権で官房長官を務めた立憲民主党の枝野前代表や、経済産業大臣を務めた海江田衆議院副議長、それに北澤元防衛大臣らおよそ20人が集まりました。 この中で菅氏は総理大臣在任中に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故に触れた上で「ある意味で日本の危機だったが、みなさんよく頑張っていただいた」と述べ、対応にあたった当時の政権幹部に謝意を伝えたということです。 会合のあと、菅氏は記者団に対し「きょうの会合は当時、非常に頼もしい存
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
多くの朝鮮人や中国人が殺害された関東大震災から、今年で100年を迎える。ノンフィクション作家の保阪正康さん(83)の父・孝さんは、少年時代に虐殺の現場を目の当たりにして生涯その記憶に苦しみ続けた。父は最晩年になって、息子に自身の過去を初めて打ち明けた。1923年9月1日の光景とは――。 「これだけはどうしても言っておかなければいけない」。84年の師走。東京で暮らす保阪さんは、がんで余命半年と診断されていた父に呼ばれ、札幌市内の病院を訪ねた。2人きりの病室で、父は当時14歳だった「あの日」を語り始めた――。 横浜市の自宅に一人でいると、大きな揺れに見舞われた。外に出ると、周囲の家は崩れ、人々が倒れている。がれきの中を歩くと、足を引っ張られた。「水がほしい」。傷だらけの青年に請われた。水を飲ませると、青年は「謝謝(ありがとう)」「私は上海から来た留学生の王(ワン)……です」 その時、いきなり後
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から47日目です。背中の右横の部分が痛くて夜中に何度か目を覚ましました。 3月4日(土) 市の外郭団体「西神開発」I岡氏とペアを組んで被災家屋再調査へ。僕が教職出身だと言うと、I岡氏も自分の経歴を語ってくれた。 学校の管理員を10年勤めて、事務職への編入試験に合格し、今の職に移ったとのこと。裏口入学ですわ、と笑っていた。 調査は今までになく順調に進んだ。先日訪ねたときに会えなかった山王町のY田さんとはようやく出会えた。 罹災証明を見ると、昭和17年生まれとのこと。30代後半くらいに見えたが。家屋は彼女の祖父が隠居するときに建てたとのことで、寿命と言えるだろうが、かなり傷んでいた。全壊の判定を下す。 木曜日に約束をすっぽかしたお詫びとのことでケーキをもらう。I岡氏からは「
東日本大震災の発生から9年の歳月が流れました。 最愛の御家族や御親族、御友人。かけがえのない命が失われた震災でした。 皆様のお気持ちを思いますと、今なお哀惜の念に堪えません。 改めまして、衷心より哀悼の意を表します。 東日本大震災は、東電原発事故における核災害を含む複合的な大災害となりました。 これにより、故郷を失った方々、生業を奪われた人々、 空間線量のみの安全性で帰還を促される住民、 汚染された農地において食物に放射性物質が移行しないよう努力を続ける一方で、 国から補償されることなく、自ら農地で被曝しながら生産活動を続ける生産者の方々、 子どもを守る一心で避難を続けていたが、 住居への補助も打ち切られ生活困窮の淵にある親子・・・ 地震、津波からの目に見える復興は前に進んでいるかに見えますが、 原子力災害に至っては、加害者である東京電力が補償・賠償を絞り続ける、 渋り続ける不誠実な態度さ
家を建ててからも、ヘーベルの モデルハウス巡りがやめられません。病気か。 先日は別件で千葉県まで足を延ばしたので、 初めて訪れる住宅展示場に行きました。 ちなみにこんな家。 その日は他にお客さんもいなかったため、 展示場の方とあれこれと雑談しまして。 これは、その時に聞いた話です。 ところは浦安。 浦安と言えば、あの東日本大震災の際、 大規模な液状化に見舞われた地域です。 ※毎日新聞HPより 展示場の建物はどうだったのかを尋ねると、 「弊社の建物は大丈夫でした」 とのこと。さすがのヘーベルハウス。 モデルハウスは、いわば ドラマのセットのようなものではありますが、 きちんと地盤改良もして、必要なだけの 耐震性をもたせて建てられているとのことでした。 しかしその一方で、液状化によって 傾いてしまったモデルハウスもあったそう。 つまり、地震によってその住宅展示場は、 どのハウスメーカーが 傾い
Nikon Z 50 + NIKKOR Z DX 50-250mm f/4.5-6.3 VR 昨日の9月11日、東日本大震災から9年半経過しました。仙台に住むと各種メディアで必ず取り上げられていました。そうかぁ、もうそんなに経ったのか。あの時、千葉に居た身ですが、千葉でも大変でした。これから長く住むことになりますので、いろんな事を学びたいと思っています。 さて、8月の上旬、宮城県山元町のひまわりと撮りに行ってきました。東日本大震災で被災した宮城県山元町沿岸部の農地にヒマワリが約180万本咲いています。 ヒマワリ畑は、震災で甚大な被害を被った沿岸部一帯を整備により農地として復旧した土地そうで、元々は畑ではなかった為に土壌を増強するためのヒマワリ畑なのだそうです。品種はサンマリノで、後で肥料になり易いんだそうです。 ヒマワリと言えば、夏の日差しを浴びた黄色の大輪を撮りたいですが、生憎の曇り気味
東日本大震災から10年がたち、津波で大きな被害を受けた東北沿岸の主な干潟では貝やカニなどの水生生物の種類が震災前より増え、おおむね生態系が回復していることが東北大学などの調査でわかりました。 福島・宮城・岩手の主な干潟11か所 水生生物の調査 東北大学の占部城太郎教授らの研究グループは、東日本大震災の津波で影響を受けた沿岸の生態系の変化を調べようと、福島県と宮城県、それに岩手県の主な干潟11か所で、震災の年から毎年、市民の協力を得て、貝や小型のカニなどの水生生物の調査をしてきました。 その結果をまとめたところ、確認できた生物の種数は、11か所の平均で、 ▽震災後の平成23年は震災前より2割ほど減って32.3種類でしたが、 ▽2年後の平成25年には58.8種類に急増、 その後再び減ったあと徐々に増えて、▽おととしの令和元年は56.5種類でした。 これは、震災前のおよそ1.4倍で、調査した11
目次 1 はじめに 2 復興は進んでいるのか? 3 子供たちの心の中に大きなビルを! 4 「三匹の子豚」の話へ 5 この話からわかったこと ①耐震強度が大切だということ ②人間にはがんばれる時期があること ③あらゆる事態を想定し、万全の準備をすること ④この話が「本当に」伝えたい事 6 おわりに 1 はじめに 3月11日は、東日本大震災から9年目を迎えます。その年の4月に小学校に入学した子供たちが、今年中学3年生の卒業を迎えます。震災の影響で4月に入学式ができなかった子供たち(東北の一部の小学生)が今度は、卒業式ができない可能性が高くなってしまいました。何というめぐりあわせなんでしょう。非常に残念でなりません。 2 復興は進んでいるのか? 私も6年前に宮城県の荒浜地区を訪問した際海岸沿いには、まだがれきが残っていて津波の爪痕の恐ろしさを感じることができました。その時は、「まだまだ時間がかか
阪神・淡路大震災で神戸・阪神間の鉄道は甚大な被害を受けましたが、その復旧に廃止された路線の“遺構”が貢献したエピソードを紹介します。 阪急電鉄神戸線の王子公園駅(神戸市灘区)の東側。線路が川をまたいでいますが、その東岸に複線分の橋台が残っています(画像)。現在は保線基地として使われているのでしょうか、本線から分岐した2本の線路が敷かれていますが、これが1920(大正9)年に開通した阪急神戸線の“遺構”です。 当時の神戸側の終点は三宮ではなく、王子公園の西側に位置する上筒井でした。上筒井で神戸市電に接続していました。36(昭和11)年に高架での三宮乗り入れが実現し、上筒井までの路線は支線としてひっそりと残りましたが、40(昭和15)年に廃止となりました。 この“遺構”が注目を集めたのが、震災で寸断された阪急神戸線の西宮北口駅以西を部分開通させるための復旧作業でした。当時の神戸新聞の記事による
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から10日目です。 1月26日(木) 本日より24時間勤務が始まる。 午前中、区役所横の保健所に避難している人にパンと栄養ドリンクを配る。一人のおばあちゃんに、風邪気味なのでドリンクをもう一本もらえないか、と頼まれる。数はほぼ人数分しかない。ごめんね、おばあちゃん。おばあちゃんに飲んでもらいたいけど、そうしたら当たらへん人がでてくるねん、とあきらめてもらう。これでよかったんだろうか。 昼からは湊川公園で救援物資の配布をする。仕事は警備係。順番を待つ人の行列は思ったほど乱れることはなかった。 夜、何度か物資の搬入を手伝う。ペットボトルの飲料にカップ麺、ジャケット、ティッシュペーパー、毛布など。 仮眠場所は区役所の地階にある公会堂。それほど寒さは感じなかったが、気分が高まっ
3.11 東日本大震災 “M9.0巨大地震”の衝撃 「東日本大震災」は2011年3月11日午後2時46分に発生したマグニチュード9.0の巨大地震(東北地方太平洋沖地震)による死者・行方不明者が2万2200人以上にのぼる大災害です。東京電力福島第一原子力発電所の事故も発生しました。国内史上最大の地震による最大震度7の揺れ。北海道・東北・関東の沿岸を襲った大津波。そして日本の形を変えるほどの地殻変動。当時の状況と教訓です。 東日本大震災関連のNHKスペシャル・ニュースなどで紹介 国内観測史上最大 マグニチュード9.0の巨大地震 2011年3月11日午後2時46分。 三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。 太平洋側を中心に激しい揺れに襲われます。宮城県栗原市で震度7 。震度6強は宮城県、福島県、茨城県、栃木県の4県37市町村で観測されました。 東京23区でも最大震度5強
1月22日(日) 小雨の中、宏兄ちゃん帰る。 家の近くで、バイクでやってきたD本先生(※前任校の同僚)と出会う。僕の被災の状況を訊ねに来てもらったようだ。D本先生の板宿(※須磨区)のアパートも被災。かなりひどいらしい。 M田氏(※南蛮美術館の同僚、行政職)より電話、火曜日に出勤して欲しいとのこと。 N村先生(※前任校の同僚、先輩)より電話、N村先生の家は西区にあり、被害はほとんどないとのこと。お風呂に誘ってもらう。 パソコン通信復旧。 トイレを流すのに使っていた浴槽の水が、もう残り少なくなってきた(※水はまだしばらく復旧しなくて、トイレを流すにはタンクに水を補給しないといけませんでした。お風呂のお湯を流してしまわず、翌日まで残すようにしていたので、震災時はその残り湯が役に立ちました。気にせずにトイレを使えるということ、これだけでもどれだけ助かったことか、、、)。 * ATD0792****
宮城県にある仙台国際空港を捉えた衛星画像。マクサー・テクノロジーズ提供(上:2010年6月7日撮影、中:2011年3月12日撮影、下:2020年8月11日撮影、2021年3月10日公開)。(c)Handout / Satellite image 021 Maxar Technologies / AFP 【3月11日 AFP】米宇宙技術会社マクサー・テクノロジーズ(Maxar Technologies)は10日、2011年3月の東日本大震災の被災地を捉えた衛星写真を公開した。公開されたのは、震災前、震災直後、そして近年に撮影された宮城県内の被災各地域、福島県にある東京電力(TEPCO)福島第1原子力発電所の衛星写真だ。 2011年の三陸沖を震源とする大地震では津波が発生し、東日本に壊滅的な被害を及ぼした。福島第1原子力発電所は浸水によって電源を喪失し、史上最悪規模の爆発事故を起こした。(c)
福島第一原発の処理水問題をめぐり、再び反日扇動に本腰を入れている韓国の「共に民主党」が、今度は100年前の関東大震災における韓国人虐殺問題を裁判の場に持ち込む準備作業に着手し始めた。国会で特別法制定を推進する一方、関東大震災の韓国人被害者の遺族らとともに日本政府に対する国家責任を問う訴訟を進める準備に入っているのだ。 警察や軍の関与はあったのか 1923年9月1日午前11時58分、神奈川県中部を震源地にして発生し、日本史上最悪の人命被害をもたらした「関東大震災」は、韓国の一部では「関東大虐殺」「1923ジェノサイド(集団殺害)」と呼ばれている。地震発生直後、日本各地で「混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こそうとしている」などのデマが広がり、多くの在日朝鮮人が日本人暴徒によって虐殺される事件が発生したためだ。 韓国の歴史学界では災害直後、狂暴な民心を収拾するために日本政府と警察がわざとデマを煽り、
臨時国会が閉幕した。安倍首相ら政権幹部は「桜を見る会」問題の追及から「逃げ切った」と胸をなで下ろしている。年を越えればオリンピックイヤーとなり、国民もメディアも五輪特有のナショナリズム一色に染まる。“お祭りムード”に浮かれた世論は、政権が喧伝する「戦後最長の景気回復」を実感し、政権の不祥事やスキャンダルへの関心は消える──と踏んでいるのだろう。 だが、そうは問屋がおろさないかもしれない。一番の理由は、10月の消費増税から始まった“大不況”の気配にある。これまで「経済政策の成果」を大看板にし、国民の不満や批判をかわそうとしてきた安倍政権だが、今後はそのフェイクがまったく使えなくなるからだ。 なぜかマスコミは大きく報道していないが、消費税率10%への引き上げ以降、景気は目も当てられないくらい落ち込んでいる。日本は、安倍政権によって谷底に突き落とされたと言っていいぐらいだ。 たとえば、今月6日に
震災から9年 みなさん、こんばんは。 明日で東日本大震災から丸9年経ちます。 もう9年、まだ9年なのか人によって捉え方は様々だと思いますが、私としてはもう9年といった感じです。 地震に津波、原発事故と多重災害だった東日本大震災。 9年経って復興を遂げたところもあれば、未だに復興の兆しすら見えない場所もあります。 そう考えるとこの9年は人によって本当に捉え方が違ってくるはずだなと思いました。 3月11日14時46分 震災直後のこと 原発事故のこと 終わりに 3月11日14時46分 震災当時、ちょうど家にいました。 地震が起きた時、2階にいて、揺れがいつもと違い長かったので、1階に降り、それでも揺れはおさまらなかったので、父親と一緒に庭に出ました。 庭に出ると揺れはさらに大きくなり、立っていられないほどになりました。 地面が裂けるんじゃないかと思うくらい激しい揺れで、こんな揺れを感じたのは後に
つらつら書いていたらいつものように長くなってしまったので、お時間のある時にどうぞ。...
緊急事態宣言から約10日。感染拡大防止のための自粛・休業要請が出ている中で、政府からの十分な補償は、行き届いていません。今回は、政治学者の中野晃一さんをゲストにお迎えし、新型コロナウイルス対策に関する緊急対談を行いました。 ※対談の様子はYouTubeでご覧いただけます。 コロナの問題で、何が浮き彫りになったのか?中野:このコロナの問題で浮き彫りになったのは「なんのために税金を払っているのか?」「政府とは何のためにあるのか?」だと思います。自粛しろ、外出するなと言われても、明日の生活のためには外に出て働かざるをえない人もたくさんいます。けれど、「外出するな」と言っておきながら補償はしない。安倍政権の、無責任さや優先順位のずれといった体質が、より一層先鋭化された形で、生死にかかわる形で出てきてしまっています。 福山:この問題は、政府の判断が少し遅れるだけで命に関わります。今もPCR検査を受け
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から21日目です。 2月6日(月) 今日から、罹災届け・義援金申し込みの受付業務に変更になるので、明けの日だったが新しい仕事内容の確認のために出勤した。仕事は公会堂内で申し込みに来た人を誘導する係だった。来庁者は多かったが、それほど複雑ではない。 仕事の内容を確認すると、9時すぎに区役所を出る。郵便局で郵便物を受け取り、帰りにローソンで昼食を仕入れる。昼間から飲むつもりだった。帰ると玄関の前でポチと目が会った。ドアを開けるとポチはいそいそと僕より先に家に入っていく。しばらくポチを膝に乗せ、味醂干しをやる。 その後は、僕の食事に付き合わせることにした。2階まで呼ぶとポチは敷いたままにしていた僕の布団をよけて、おそるおそるという感じで部屋に入ってきた。僕は焼きそば、ポチには
26年前、わたしは神戸市兵庫区で震度7の揺れを経験しました。その記憶を日記とパソコン通信のログとで振り返っています。あの日から28日目です。被災家屋を回りました。 2月13日(月) 今日から日勤。本庁の職員7人全員で家屋の再調査の応援をすることになった。Y村、T井、M井、F井、M崎、K上と僕の7人。 8時半、区役所3階の課税課に集合。顔合わせ、説明のあと、区内へ散らばっていく。ペアは、課税課のA田さん。午前中2軒、午後9軒を回る。 家屋の再調査は、罹災証明を申請した時に被災の判定内容に不服を申し立てた人の家を個別に回って再調査をする仕事だ。家屋を基礎、壁面、屋根の各部分に分けて調査し直し、それぞれにポイントを付けて合計点数で判定する。五割以上の損傷があれば半壊になる。 実際に家を回って話を聞いていると、何割かは申し立て通りになる。地震後の混乱がまだ治まらない時期に大急ぎで判定して回ったもの
関東大震災で海底に沈んだ当時の姿を伝える根府川駅のプラットホーム=神奈川県小田原市根府川沖で(根府川ダイビングサービス提供) 100年前、関東大震災の地滑りで海に転落した鉄道駅があり、海底ではプラットホームなどが被災当時の姿を今も保っているという。神奈川県片浦村(現・小田原市)の熱海線(現・JR東海道線)根府川(ねぶかわ)駅。先月末開かれた日本考古学協会の年次総会で、林原利明・東京海洋大非常勤講師(水中考古学)が現況報告し、活用法を提案した。災害遺跡の将来像として、防災などの多くの観点から注目される。 1923(大正12)年9月1日の関東大震災の震源は相模湾。神奈川県沿岸部には甚大な被害が出た。海沿いの標高約50メートルの崖の中腹にあった根府川駅は地滑りと土石流により、入線してきた列車とともに海岸・海中に転落した。直後に津波にも襲われ、列車と駅にいた乗客職員100人以上が亡くなる大惨事とな
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
わたしは阪神淡路大震災の翌春、大阪文学学校という文章教室に通い始めることにしました。そこには、文章について学ぶというより、小説について語り合える仲間たちと、時間と空間とを共有できる面白さがありました。もちろん、お酒を飲みながらそれを味わうこともできました、、、(^_^) その教室に2年通い、知り合った仲間たちと小説同人誌を作るようになりました。1997年4月から2008年8月までの間に、3つの同人誌・28冊の発行に関わりました。小学生の頃から書くことが大好きでしたが、それが生活の一部になったのは、震災がきっかけでした。今回、ブログに連載した『震災通信』は、2004年11月10日発行の同人誌に掲載した作品です。 ですので、以下は、2004年11月の視点で書いた文章です。そのまま再掲していますので、時系列的に読みづらい部分もあるかと思いますが、どうぞご容赦くださいますように。 * 震災からやが
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く