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  • 『非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい|note』へのコメント

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      『非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい|note』へのコメント
    • 資本主義ゾンビ|小野ほりでい

      "売れているのが良いもんなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ。" この言葉はロック・ミュージシャン甲本ヒロトの名言として一般に知られている。もしも「売れていること」が「良いこと」の証明なら、売れていないものを好きだという気持ち、あるいは売れているものが嫌いだという気持ち―――つまり定量化の基準から溢れる個人の「主観」―――は、無意味だということになる。この言葉は反語的に、「広く普及している価値観によって否定されたとしても、私が好きなものはそれでも好きだ」という主観を肯定しているわけだ。 しかし、この言葉から20年が経ったいま、"売れているのが良いもんなら、世界一うまいラーメンはカップラーメンだ"とあなたが言ったなら、こういうふうに否定されるだろう。 ”良いとか悪いなんていうのは結局のところ個人の感想でしかない。でも売れているっていうことは誰の目にも分かる、ひとつの確かな指標だ。あん

        資本主義ゾンビ|小野ほりでい
      • 『政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい|note』へのコメント

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          『政治の話をやめて、猫や犬の画像でも見ましょう|小野ほりでい|note』へのコメント
        • 「性善説の人」はなぜ争うのか|小野ほりでい

          相反する立場で争っている人間たちが互いに極度に似通っているということはあまり珍しくないが、ネット上では特にその傾向は強いように思われる。 特に、加害者と被害者、強者と弱者といった二元論的対立は、最終的には互いが相手のほうこそ加害者であり、真の被害者は我々のほうであるといったふうな堂々巡りに帰着することが多いが、こういった議論では立場Xと立場Yがそれぞれの加害性の否認にリソースを割いてしまい、その加害性を必然たらしめている構造Zにまで及ぶことが少ない。 そして、二元論的な対立では「差別対反差別」のような、一見するとどちらが正義でどちらが悪かはっきりしているような問題でも、糾弾する側とされる側の勧善懲悪的世界観が「似通っている」ことが多く見られる。 それは差別だー差別ではない! ネット上の反差別運動とさらに反ー反差別運動を横断している大きな誤解とはまず、差別の有無を悪意の有無と厳密に結びつける

            「性善説の人」はなぜ争うのか|小野ほりでい
          • 「お前がモテないのはこうだから」2010年代の恋愛を振り返る/小野ほりでい |AM(アム)恋愛メディア

            2010年代の恋愛事情をひと言で括るなら、「実力社会」の四文字が相応しいのではないでしょうか。「婚活」「恋活」「女子力」といったマッチョ思考な言葉で表現されるように、結婚までを視野に入れた「恋愛」はいつの間にか「努力」を要求するものになったのでした。 かつて、「縁があった」とか「縁がなかった」というように「転がり込んでくる」ものだった恋愛は、己の努力によって獲得する「競争」的な性質のものに変わりました。恋愛は欲望の開放ではなく糖質制限、筋トレ、自分磨きといった禁欲的な努力のイメージと繋がり、婚活ビジネスでは「費やした努力(金額)が実を結ぶ」というソーシャルゲーム的な図式が強調され、マッチングサービスの広告には「エンジニア年収700万」とか「人事年収800万」といった射幸心を煽る表現が躍ります。 恋愛には「努力」と「結果」が対応しているという理屈によって「縁がない」は「努力が足りない」という

              「お前がモテないのはこうだから」2010年代の恋愛を振り返る/小野ほりでい |AM(アム)恋愛メディア
            • 疫病は精神論を侵すか|小野ほりでい

              ここ最近のネットを見ていて、ついに政権批判の声が政権擁護の声より大きくなり始めたというのを実感する。少なくとも私にとっては、こんなことは今まであり得なかったというか、不可能ではないかというふうに感じられていた。あくまで見た感じの印象ではあるが、これまで政権批判的な意見はどんなものであっても「自己責任論・個人帰結」型のリアリズム、すなわち「この人間(ないしこの者が擁護している人間)は個人的な努力、工夫を怠った責任を社会やシステムに求めているだけなのだ」という万能の理論で一刀両断されるというのが常で、この万能さをもって必ず右派と左派の論争は形式じみた応援合戦的な対立としてなあなあで終結するのが常だったように思う。そのパワーバランスが変わっているのは何故だろうか? 私の理解では、日本社会の全体的な雰囲気は「精神論型メリトクラシー」である。メリトクラシー<実力社会、成果主義>は本来(機会としての)

                疫病は精神論を侵すか|小野ほりでい
              • 肯定と共感のサークル|小野ほりでい

                誰もが気軽に「意見」を発信することのできるインターネットの発展は、個人同士の対話を促進するものと思われた。しかし実際にネット上で繰り広げられたのは、あらゆる個人が同じイデオロギーで団結し、その信念をますます強固にする一方、異論の存在を否認し、ますます自我に引きこもるという光景だった。 ネット上の言論では、それぞれの集団がそれぞれの真実を擁立する。集団は外部の真実との接触を避け、「肯定と共感」で構成された温かいコミュニティを形成する。外部との接触は、対話や取り入れではなく否認による連帯関係の確認のために行われる。つまり、異なるイデオロギーとの接触はその存在を否認するための攻撃的な態度によって実現される。大まかに言えば、このような形式が脱真実(post-truth)時代の「対話」形式である。 日本では、対話とイデオロギーが「肯定と共感」の時代に突入したひとつの目印として2017年の今井絵理子議

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                • ”弱者”がなぜ”羨望”されるのか?ー「傷ついた」と言えない人たち|小野ほりでい

                  さて、ネット上には傷ついていると主張する人にむかって「そんなことでいちいち傷つくな」とか「被害者ぶるな」とわざわざ唾を吐きかけにくる人が沢山いますね。一般論としては、この人たちは「自分の加害者性を認めていない」のだと批判されがちです。しかし、今回はむしろ「この人たちが認めていないのは自分の弱者性や被害者性のほうではないか」という視点の話をしてみたいと思います。 前半では、すでに何度か説明した「傷つきやすい人」に過敏反応する人ほど精神的に弱いという逆説について書いています。本題である「弱者への羨望」というねじれた現象に関しては後半から触れているので、必要な方は読み飛ばしてください。 傷つきやすい、“イノセント“な自己像 さて、「弱者をいたわるなんてとんでもない!」というマッチョ論は注意深く観察すれば必ずひとつの矛盾にぶつかることがわかります。「弱者をいたわるなんてとんでもない!」と主張する人

                    ”弱者”がなぜ”羨望”されるのか?ー「傷ついた」と言えない人たち|小野ほりでい
                  • ”いじめっ子”はなぜ崇拝されるのか?|小野ほりでい

                    最近では、閉鎖された組織内でのハラスメント体質が告発されたり、オンラインサロンの参加者が詐欺まがいの搾取を受けるといったニュースは特に珍しいものではありません。このタイプの「嗜虐的な」リーダーに追従する人たちは、自分の不利益をすすんで受け容れ、対等な関係を結んでくれないリーダーに対して献身的に尽くしますが、外部から見ればこれは不思議に見えて仕方ありません―――なぜ、自分を対等に扱ってくれる人よりも軽視する人のほうが、利益をもたらしてくれる人よりも搾取する人のほうが「カリスマ的」な崇拝を受けることになるのでしょうか? このような関係を紐解くためにたったひとつ、アンナ・フロイトが防衛機制のなかで特に重視した「攻撃者との同一視」という概念を導入したいと思います。フロイトは「攻撃者との同一視」を、幽霊を恐れる子どもが幽霊の格好を真似てその恐怖から逃れようとする態度にたとえます。自分に恐怖や不安を感

                      ”いじめっ子”はなぜ崇拝されるのか?|小野ほりでい
                    • 『リアリストはなぜ話が通じないのか?|小野ほりでい』へのコメント

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                      • [B! ] 【コロナ】怖がってくれない人たちについて|小野ほりでい|note

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                          [B! ] 【コロナ】怖がってくれない人たちについて|小野ほりでい|note
                        • 雁琳(がんりん) on Twitter: "非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい @onoholiday #note https://t.co/19d7nLCrPZ この文章、結論にも行論にも全く同意出来ないが、「アップデートされた」啓蒙主義的な哲学の最大の問題点が実は見事なまでに明らかになっている。"

                          非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい @onoholiday #note https://t.co/19d7nLCrPZ この文章、結論にも行論にも全く同意出来ないが、「アップデートされた」啓蒙主義的な哲学の最大の問題点が実は見事なまでに明らかになっている。

                            雁琳(がんりん) on Twitter: "非モテは不幸だという呪い|小野ほりでい @onoholiday #note https://t.co/19d7nLCrPZ この文章、結論にも行論にも全く同意出来ないが、「アップデートされた」啓蒙主義的な哲学の最大の問題点が実は見事なまでに明らかになっている。"
                          • ゼロ和ゲームと「日本的な」貧困|小野ほりでい

                            格差社会、つまり一見すると豊かな先進国における新しい貧困は、それまで当たり前に可能だったものが不可逆的に失われる形で進行する。私たちが日々目撃している限りでは、その貧困は社会から「無駄なもの」を省くという努力がますます貧困を促進するという皮肉な矛盾によって加速する。 この矛盾はシンプルに、「貧しい人が増えれば社会は貧しくなる」にも関わらず、社会は「貧しい人を増やすこと」を歓迎せずにはいられない、という形で発現する。 この新しい形式の貧困の最大の特徴は、貧困者それ自体が貧困者を憎悪する点にある。たとえばアメリカの白人貧困層は、格差社会やその上流にある富裕層ではなく、自分たちの仕事を奪う移民(つまり自分たちと同等の、あるいはそれ以上の弱者)を差別し、むしろ社会保障を縮小する新自由主義的な文脈での「保守派」に転じる。日本でもこのような光景は見るに事欠かない―――生活保護叩きや貧困者の救済を訴える

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                            • 気候変動と加速主義|小野ほりでい

                              ここでの矛盾は、気候変動がもたらす災害に対して責任を負っている富裕層ほど、その否定的帰結から逃れるための技術や資本を持っており、責任がないその他大勢の人ほどその被害にさらされやすいということである。(引用元:グレタさんが訴える気候変動の正義は「新たな階級闘争」だ  より、斎藤幸平氏) 環境問題は富裕層によって引き起こされ、その他大勢を直撃する。であれば本来、グレタ・トゥンベリによる気候変動への主張は”その他大勢”によって支持されるものと考えられるが、ご存知のように彼女に対する大人たちの反応は冷ややかだ。この理由について考えると、本来対立しているはずの「環境を破壊する富裕層」と、「彼らによって未来を奪われるその他大勢」が不思議な共犯関係を結ぶという構造が浮かび上がる。 個人に対して「環境問題によって我々の未来が奪われている」こと、そして「そのためにすべきことがある」ことを啓蒙するためには少な

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                              • 差別はなんでなくならないのか|小野ほりでい

                                大量失業は、個人化という条件の下では、個人的運命として人間に負わされる。人間は、もはや社会的に公然とした形でではなく、しかも集団的にでもなく、個々人のある人生の局面において、失業という運命に見舞われる。失業という運命に見舞われた者は、自分一人でそれに耐え忍ばなくてはならない。(「リスク社会」、ウルリヒ・ベック) ウルリッヒ・ベック「リスク社会」によれば、個人化が進んだ社会ではあらゆるリスクが集団や共同体といった緩衝地帯を通り抜けて直接個人に分配されるという。 昨今のコロナ禍は、この言葉の意味を私たちにこの上なく分かりやすく説明してくれた。疫病下でジムや飲食店、娯楽施設のような人間同士の接触をともなうサービス業がのきなみ自粛要請を受け、その間の収入が絶たれ、十分な保障が受けられない。あるいは学生がアルバイト先を失い、学費が払えなくなり、実家に帰るための移動も禁じられる。社会に所属する「わたし

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                                • 恋愛はなぜ廃れるのか|小野ほりでい

                                  男はどうしてこうも家事ができないのか、とか女性の社会参加や意見表明はどうしてこうも阻害を受けるのか、というテーマはいつまでたってもジェンダー論の中心にいる。なんでか分からないが私たちは、男に生まれたら男はこういうふうにするものだとか、女に生まれたら女はそういうことをしないという教育を受けて、言われるがままにそれを守って大きくなる。そしてごく自然にそういうルールを守らない人をおかしいと笑ったり、正しくするべきだと批判する。 日本では、女性が意見を表明することがとても嫌われている。女性が大きな声で話していいのはたいてい趣味とか文化の領域の話であり、社会や組織について発言すると「女賢しくて牛売り損なう」の理屈を現実化しようとするものすごい力が働いて、なんとか意見したことを後悔させようと試みる人たちが現れる。女性の発言ばかりが是非を問われ、結果的に「黙っていた女が賢くて出しゃばった女は叩かれる」と

                                    恋愛はなぜ廃れるのか|小野ほりでい
                                  • 自己嫌悪に陥りやすい人|小野ほりでい

                                    自己肯定感のある人とは、何でもないわたし、何もしていないわたし、何の性質も伴っていないわたしの存在を受け容れられる人のことである。たとえば、何かをやろうとしてできないとき、自己肯定感のある人はそれをできない自分を認めてやることができるが、自己愛の強い人はできる自分でなければ愛せないと考える。 精神的に強い人はなぜ自分を肯定できるのか、という根拠を自分の存在そのものに置いている。しかし、精神的に弱い人は仕事ができる私、見た目が美しい私、誰かより優れている私…といった条件面にその根拠を置く。自分自身を好んでいないために、誰かに証明してもらえる要素を介して自分を愛そうとする。しかし、外的な要因に根拠を置けば精神はたえず揺るがされることになる。 自己肯定感のある人は、理由なく自分自身を受け容れられるために、全く同じように他人に対しても条件なしの肯定を持って接することができる。いっぽう、自己肯定感を

                                      自己嫌悪に陥りやすい人|小野ほりでい
                                    • 小野ほりでい on Twitter: "これはちょっとしたインターネットあるあるなんですけど、各分野の優れたクリエイターとかスポーツ選手的な有名人は「負けてはいけない」業界で「勝ち続ける」ための哲学を持ってるのでそれを社会全体に反映して発言すると地獄みたいな理論になって炎上することがあります"

                                      これはちょっとしたインターネットあるあるなんですけど、各分野の優れたクリエイターとかスポーツ選手的な有名人は「負けてはいけない」業界で「勝ち続ける」ための哲学を持ってるのでそれを社会全体に反映して発言すると地獄みたいな理論になって炎上することがあります

                                        小野ほりでい on Twitter: "これはちょっとしたインターネットあるあるなんですけど、各分野の優れたクリエイターとかスポーツ選手的な有名人は「負けてはいけない」業界で「勝ち続ける」ための哲学を持ってるのでそれを社会全体に反映して発言すると地獄みたいな理論になって炎上することがあります"
                                      • 『「自分が我慢していることをお前も我慢しろ」という心理|小野ほりでい|note』へのコメント

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                                        • 普通に生きていける人について(宣伝)|小野ほりでい

                                          落ち込んで、もう立ち行かないと思ったときに、どうやって心を立て直すのか調べると、友達に会えとか、気分転換にどこかへ出かけろとか、家族をあてにしろとか、「普通の人に普通にあるもの」を要求されて、「普通」の前提ってこんなに多いんだな、と逆に感心させられます。 外へ出かけるには出かけられる精神力が必要だし、家族を頼るにはまっとうな家や家族が必要だし、友達に相談するには相談するに値する友達が必要だし、そんなものがあったら最初から悩むことなんてないだろ、とさえ思ってしまいます。 それもそうだ、友達に話したら気が軽くなるだろうし、運動したら気分は上向くだろうし、親身になってくれる人を頼ったら救われるだろうけど、そもそもそれができるのは何でなんだ、ということを教えてくれる人はいません。幸福について答えを出してくれる人はだいたいこういう「ノウハウ」みたいなものを教えてくれるけど、「ノウハウ」でなんとかなる

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                                          • 「私がモテないのではなく、恋愛が流行ってない」という可能性|小野ほりでい

                                            せっかくのクリスマスなので恋愛の話をしてみよう。 「普通」の人は誰でも―――生殖をゴールとした異性愛としての―――恋愛、結婚をするものだという価値観は、文化・社会的な環境の変化によって実質的にそれが「普通」でなくなってからも根強い。 そして、この前時代的な価値観は、満足のいく恋愛状態にない場合、当然のことながら「普通」の人なら誰でもできることを自分はできていない、という劣等感を伴うことになるので、結果的には自らを追い込み呪うものに他ならない。 であれば、このような「普通」という概念は崩しておくのに越したことはないという話になるが、一方でこの「普通の恋愛」への信念は長い間自我の安定の役に立ってきたもので、おいそれと捨てるわけにはいかないものであることも確かだ。 しかし、それでも断言できることがあるとすれば、「普通の恋愛」なるものがあるとすれば、それができないからといって傷つくような時代はとっ

                                              「私がモテないのではなく、恋愛が流行ってない」という可能性|小野ほりでい
                                            • 暴力でない哲学的パンチ|小野ほりでい

                                              2019年8月11日、「『アンパンチ』で暴力的に? 心配する親も…メディアの暴力シーンは乳幼児にどう影響?」という記事がネット上で配信される。 配信サイトからのTwitter上の告知には3000を超えるコメントが殺到し、その温度は一様に高い。だいたいの雰囲気はこんな感じだ。 ・うちの子は暴力的になっていない ・暴力的になったとしても親の責任 ・アンパンチは暴力じゃない ・そういうことを言っている親のほうが暴力を振るう ・親の頭のほうが心配 ―――要するにこれはよくある、「犯罪や暴力の根源をフィクションや娯楽表現に帰結し、決めつけで撲滅しようとする理解のない表現規制派」、つまりフィクション愛好者に対する「外敵」と捉えられているようだ。 では、この反論をふまえて元の記事を読んでみよう。短いものなのでざっと目を通すのに時間はかからなそうだ。ここではその一部を引用させていただきたい。 メディアの暴

                                                暴力でない哲学的パンチ|小野ほりでい
                                              • 【パソコン】やばい人に絡まれた!どうしたらいい?【インターネット】|小野ほりでい

                                                誰でもインターネットで発信したり、意見を言ったりすると変な人に絡まれることがありますね(現実でもそうですが)。中には極端に攻撃的な人がいて、怖くなって発信することをやめたり、何も言わないようになってしまう人も少なくないと思います。 攻撃的な人に遭遇したらふつうの人はびっくりして傷つきますし、その責任は傷ついた人にあるわけではありませんが、いくつかのことを知っておけばこういう人と遭遇したときに冷静に対処できるかもしれません。 そこで今回は、ネットにいる攻撃的な人は何を考えているのか、どうしてほしいのか、詳しく掘り下げてみたいと思います。 1.そもそもなんで攻撃するの? 大前提として知っておくべきなのは、「攻撃的な人」とは「精神的に不安定な人」だということです。ネット上にはよく、色んな人にけんかを売ってまわって、そのようにしている自分を「強い」と勘違いしている人がいますが、このような人は強いの

                                                  【パソコン】やばい人に絡まれた!どうしたらいい?【インターネット】|小野ほりでい
                                                • 小野ほりでい on Twitter: "オタク(趣味)の性質が、昔は「集団・主流の雰囲気に馴染まない人が個人的に没頭する何か」みたいなイメージだったけど、最近は「同じことについてみんなと一緒に盛り上がるスキル」を要求するものにシフトしてるように感じることがある。この変化でオタクになった人と逆に疎外された人もいるのでは?"

                                                  オタク(趣味)の性質が、昔は「集団・主流の雰囲気に馴染まない人が個人的に没頭する何か」みたいなイメージだったけど、最近は「同じことについてみんなと一緒に盛り上がるスキル」を要求するものにシフトしてるように感じることがある。この変化でオタクになった人と逆に疎外された人もいるのでは?

                                                    小野ほりでい on Twitter: "オタク(趣味)の性質が、昔は「集団・主流の雰囲気に馴染まない人が個人的に没頭する何か」みたいなイメージだったけど、最近は「同じことについてみんなと一緒に盛り上がるスキル」を要求するものにシフトしてるように感じることがある。この変化でオタクになった人と逆に疎外された人もいるのでは?"