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戦国時代の検索結果1 - 6 件 / 6件

  • 「ワイ、戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の末裔説」を本気で検証してみた。佐賀の『はじまりの名護屋城。』をきっかけに遠い先祖(?)へ思いを馳せる

    定説では「長宗我部氏の本流は途絶えた」とされていますが……©コーエーテクモゲームス All rights reserved.こちらは前田利家の陣跡に設置された周遊サイン! そして前田利家陣跡! 立派な石垣もあって「陣というより、もはやお城じゃん」という感覚になってしまいました。 他にも豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、石田三成、加藤清正など錚々たる面子が集結しており、まさに戦国オールスター! そして名護屋城跡には今回はじめてお邪魔したのですが、めちゃくちゃデカくてびっくりしてしまいました。 それもそのはず、当時大坂城に次ぐ全国2番目の規模のお城で、日本の100名城にも選ばれているお城が名護屋城なのであります。 天守台から見た風景。眺めは最高なんだけど、海が目の前で風がすさまじいので、「こんな所で暮らすの大変ですね」って言ったら、学芸員の方も「やはり風を嫌ってか、豊臣秀吉は本丸に住まずにすこし下

      「ワイ、戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の末裔説」を本気で検証してみた。佐賀の『はじまりの名護屋城。』をきっかけに遠い先祖(?)へ思いを馳せる
    • “信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK

      それによりますと、この書状は今の岐阜県の美濃地方を治めていた戦国武将の斎藤道三が近隣の地域の領主に宛てたもので、その内容や署名などから、1552年ごろに書かれたと見られるということです。 道三は、織田信長に自分の娘・濃姫を嫁がせています。 書状では、「信長とあなたは大変親しいということでうれしく思う」と記したうえで、信長について「若造で至らない点もあるがご容赦いただき末永くつきあってほしい」と伝えています。 信長の人生を側近がまとめた文献「信長公記(しんちょうこうき)」ではこの書状が書かれた時期に道三は若き信長と初めて面会し、その奇抜な身なりや言動で周囲から「うつけ者」と呼ばれていた信長の才能を見抜いたとされています。 村井准教授は「道三の書状はあまり残っておらず信長に言及していることも珍しい。書状には、道三が信長のことを大事に思い気にかけていることがはっきりと記されていて『信長公記』の記

        “信長を気にかける貴重な資料” 義父 斎藤道三の書状を発見 | NHK
      • 【どうする家康】「ファンタジーすぎて興醒め」ヤマ場の築山事件 “新解釈” 脚本に違和感の嵐「歴史に敬意がない」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース

        6月25日、NHK大河ドラマ『どうする家康』の第24回「築山へ集え!」が放送された。世帯平均視聴率は10.0%だった(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。 家康(松本潤)は、正妻・瀬名(有村架純)が「築山」(瀬名の住む屋敷)に、敵である武田家の重臣らを招いていることを知る。このことが信長(岡田准一)に知られてはまずいと、築山に踏み込んだ。 だが、瀬名は「戦い、奪い合うのではなく与え合う。互いの国が、慈愛の心で結びついて大きな国をつくれば、織田も手出しはできない。そういう国をつくりたい」と、壮大な “謀(はかりごと)” を話す。 それを聞き入れた家康は、武田勝頼(眞栄田郷敦)と手を結ぶが、やがてそれは信長の耳にも入りーーという話が展開された。 「家康が正妻の築山殿(瀬名)と嫡男・信康を死に追い込んだとされるのが、世に言う『築山事件』です。築山殿が武田側と内通していることを、信康の妻である徳姫(ド

          【どうする家康】「ファンタジーすぎて興醒め」ヤマ場の築山事件 “新解釈” 脚本に違和感の嵐「歴史に敬意がない」(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
        • 徳川家康最大のピンチ「伊賀越え」を徒歩で再現する総歩行距離130km超えの旅【1日目:四條畷神社~山口城】

          徳川家康が本能寺の変の知らせを聞いて大阪から愛知県の岡崎城まで3日で帰ったという「伊賀越え」を徒歩で再現する旅に出ています。1日目は大阪府四條畷市の四條畷神社から京都府宇治田原町の山口城(別名:宇治田原城)まで移動したので、その過程をまとめてみました。 ◆1日目の予定ルート 1日目は四條畷神社を出発し、家康が通ったと伝わる「尊延寺道標」と「草内の渡し場跡」を経由して、家康が宿泊した「山口城(別名:宇治田原城)」まで行きます。 ◆スタート地点の四條畷神社へ移動 家康は本能寺の変が発生した際に堺周辺を観光しており、四條畷神社に訪れていた際に信長の死を知ったとされています。そこで、今回の旅は四條畷神社をスタート地点に設定しています。四條畷神社の所在地は以下。今回は電車で四條畷駅まで行き、そこから徒歩で四條畷神社まで移動しました。 駅から四條畷神社本殿に向かう途中の鳥居。 この階段を上れば、すぐに

            徳川家康最大のピンチ「伊賀越え」を徒歩で再現する総歩行距離130km超えの旅【1日目:四條畷神社~山口城】
          • 火縄銃の威力はどれくらい?

            雪かき職人 @matsugae02 @eqNdk6QOVO7p2kh @Hashira_EKT 現代の銃器に置き換えるとショットガンのスラッグ弾を極端にしたような性能で、50m以内だと威力は現代のライフル弾をも超える事も。ただし命中精度や距離による減衰はまったく現代銃器に勝てないってのが銃器雑誌の検証のテンプレですかね 2020-01-25 21:10:33 皮算用(半地下ニバル) @kawazanyou_exe @eqNdk6QOVO7p2kh 現代でいうところのスラッグ弾みたいなモノなので、甲冑でフル武装した相手を鎧ごと叩き潰す威力ならあったみたいです。 但し火薬は当時国内で量産出来なかったので(一向衆は除く)いつでも運用出来る訳ではなかったようです。 2020-01-25 18:43:29

              火縄銃の威力はどれくらい?
            • 「伊賀越え」同行忍者の経歴判明 家康と足利義昭の二重スパイか

              徳川家康の人生最大の危機ともいわれる「神君伊賀越え」に同行した忍者のひとり服部保次(やすつぐ)が、室町将軍、足利義昭の配下として護衛役や諜報活動を行った経歴があることが最新の研究で明らかになった。隠密裏に諜報や工作を担う性質上、忍者の経歴が記録されることは少ないが、複数の書状の分析などから判明した。徳川家康と足利義昭という戦国の巨頭のはざまで生きた忍者は、二重スパイをしていた可能性もあるいう。 愛知県で9月開催された国際忍者学会に合わせ発刊された会誌に、奈良県の歴史作家、上島秀友氏の論文「『服部保次』考」が掲載され明らかになった。 国際忍者学会の大会で発表する上島秀友氏=9日、愛知県常滑市保次は1526年、伊賀(三重県)生まれ。65年から家康に仕え、信長が明智光秀に討たれた82年の本能寺の変の混乱の中、家康が遊覧先の堺から領国の三河(愛知県)に逃げ帰る「伊賀越え」で活躍したとされるが、詳細

                「伊賀越え」同行忍者の経歴判明 家康と足利義昭の二重スパイか 
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