終戦8・15の記憶 玉音放送の全文<現代語訳付き> 2014/8/15 6:00 (2024/1/30 15:31 更新) [有料会員限定記事] 終戦の詔書(しょうしょ)は、1945年8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定されたのを受け、発布された。翌15日には、昭和天皇が詔書を読み上げた玉音(ぎょくおん)放送がラジオで流れた。郷学研修所・安岡正篤記念館(埼玉県)の助言を受け、全文と現代語訳を紹介する。...
バイデン米大統領が先月、プーチン露大統領にウクライナ領土の20%を受ける条件での終戦を提案したが、実現しなかったという報道があった。 2日(現地時間)、ドイツ語圏メディアのノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥング(NZZ)はドイツ高官の発言を引用し、米中央情報局(CIA)のウィリアム・バーンズ長官が先月、極秘でモスクワを訪問し、バイデン大統領の平和提案を伝達したと報じた。 これに先立ちワシントンポスト(WP)はバーンズ長官がウクライナを訪問し、ゼレンスキー大統領と会った事実を伝えていた。しかしバーンズ局長のロシア訪問事実が伝えられたのは今回が初めて。 バイデン大統領が提案した「ウクライナ領土の20%」はプーチン大統領が欲を見せてきたドンバスの面積とほぼ同じ。この提案なら、終戦時にロシアは2014年に違法に占領したクリミア半島に続いてウクライナ東部地域まで掌握することになる。 しかしバイデン大統
Published 2019/08/09 10:20 (JST) Updated 2019/08/10 11:41 (JST) 米軍機が長崎原爆の投下直後に撮影した「きのこ雲」の映像に、米軍が原爆投下の約1時間前に鹿児島西部の旧串木野町(現いちき串木野市)を空襲した際に発生した黒煙が、写り込んでいることが分かった。長崎総合科学大の大矢正人名誉教授らが特定した。 大矢氏は「終戦直前まで日本全土に空襲が広がっていた」と話している。 大矢氏らは2014年、米軍が長崎原爆投下直後に上空約9キロから「きのこ雲」を撮影した約3分間の映像を米スタンフォード大のフーバー研究所から入手。映像を活用し、きのこ雲を撮影した米爆撃機B29の飛行ルートを割り出した。 大矢氏らは研究過程で、きのこ雲の右後方に写り込んでいる小さな黒煙に着目した。当初は鹿児島・桜島の噴煙と推測したが、当時の気象記録では1945年の噴火は
支那の排日を仕掛けたのは英米である 前回まで山中峯太郎の『日本を予言す』(GHQ焚書)のなかで、わが国が支那や英米やソ連の宣伝戦、思想戦に振り回されていたことが書かれている部分を紹介させていただいた。今のわが国の新聞とは違い、当時の新聞には各国からわが国に宣伝戦、思想戦が仕掛けられていたことについて数多く報じられているので、戦前の日本人の多くがその点についてある程度理解していたものと考えられる。最初に紹介したいのは第一次世界大戦以降本格化していった支那の排日だが、以前にもこのブログで紹介させていただいたように、当初は英米が仕掛けたものである。 第一次世界大戦中の一九一七年にロシアで革命が起こり、一九一八年三月にソ連新政府はドイツと単独講和を行い戦線を離脱。五月にはアメリカが参戦することでドイツの敗北は決定的となり、十一月に休戦協定が結ばれて、第一次大戦は終戦した。 四年以上続いた大戦で、欧
1945年8月15日、玉音放送をラジオで聴き、涙を流す日本軍の捕虜。グアムの収容所で撮影された写真=渡邉英徳さん提供 76年前のきょう、8月15日。玉音放送をラジオで聴いた日本軍の捕虜は、肩をはったまま、涙をぬぐうようにして白い布を目元に押しあて、額に汗をにじませていた――。 【原爆投下直後や当時の子どもたちのカラー化など、写真の続きはこちら(計16枚)】 冒頭の写真はグアムの収容所で撮影され、ワシントンのアメリカ海軍国立博物館に貯蔵されていた。もとはモノクロだった。色付けされたことで、南国の抜けるような青空が目に留まるように鮮やかになった。よく見ると、写真右側にある木の奥に鉄条網のような網があり、そこが収容所であることを改めて物語っていた。 National Museum of the United States Navy モノクロ写真をAI(人工知能)と人のコラボレーションによってカラ
「ヒトラーにユダヤ人の血が流れていた」説はフィクション 本作で重要なモチーフとなるヒトラーにユダヤ人の血が流れていたという話は、『週刊文春』の2代目担当編集者・池田幹生が聞いたところでは、集英社からそういうノンフィクションが出ていたことから編集部側より提案したものだという(インタビュー前編を参照)。おそらくそのノンフィクションとは、アメリカの作家ジョン・トーランドの『アドルフ・ヒトラー』と思われる。1979年に集英社から邦訳(永井淳訳)が刊行された同書の上巻ではたしかに、ヒトラーの祖父がユダヤ人だった可能性が示唆されていた。 ただ、この説は現在でははっきり否定されている。イギリスの研究者イアン・カーショーの手になる評伝『ヒトラー 上 1889-1936 傲慢』(川喜田敦子訳、白水社、2016年)によれば、これはもともと1920年代にミュンヘンのカフェでささやかれていた噂を、後年外国メディア
1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW c619-F+ib) [] :2022/08/15(月) 19:28:54.05 ID:Ea1lvTdB0● (1/22) [PC] ?2BP(1000) 終戦の日 各地で亡くなった人を悼み 平和について考える集会 2022年8月15日 17時00分 終戦の日の15日、戦争で亡くなった人を悼み平和について考える集会や催しが各地で開かれました。 このうち東京 千代田区の靖国神社では、総理大臣や閣僚に参拝を求める団体が集会を開きました。 この中で、自衛隊の元最高幹部で「英霊にこたえる会」の寺島泰三会長は「国民の間で改憲の意識が高まっている今こそ憲法改正の絶好の機会だ。国会で速やかに議論を進め、新たな日本に脱皮を図っていくべきだ」と述べました。 また、ウクライナ出身の評論家、ナザレンコ・アンドリーさんは、ロシアによるウクライナ
2021年の夏は、戦後76年を迎える。 明治維新を経て誕生し、20世紀半ばに向かって拡大を続け、そして崩壊に至った大日本帝国。その栄枯盛衰を、世界的な絵はがき収集家ラップナウ夫妻による膨大なコレクションを題材に読み解いていったロングセラー『絵はがきの大日本帝国』(二松啓紀著)より、第二次世界大戦に向かっていく当時の日本について一部を抜粋して引用する。 盧溝橋事件から第二次上海事変へ 1937(昭和12)年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋付近で日本軍部隊が夜間演習中、突然、銃声が鳴り響いた。点呼すると、一人の二等兵が見当たらない。日本軍部隊は中国軍(国民革命軍)の攻撃と断定して直ちに応戦した。 その後、兵士は見つかった。一時は緊張が高まったが、小規模な衝突に終わり、7月11日に現地で停戦協定が成立する。日中両政府は「不拡大」の方針を示し、事態は一旦収束に向かった。そんな期待は裏切られ
おこしやす♪~ 8月15日は何の日? その時そして今日何してた? 2023年(令和5年) 8月15日は黒石よされ、松ヶ崎題目踊、デカンショ祭、精霊流し、山鹿灯籠まつり、月遅れ盆、終戦記念日、戦没者追悼の日、刺身の日、すいとんで平和を学ぶ日、親に会いにいこうの日、等の日です。 ■黒石よされ(~16日)【青森県黒石市】(予定) www.youtube.com 2023年8月15日〜16日、青森県黒石市で日本三大流し踊りの一つ「黒石よされ」が開催されます!雨天中止 場所=青森県黒石市 中町こみせ通り・横町・一番町・甲徳兵衛町 コース・スケジュール 流し踊りコース: 中町こみせ通り─横町─一番町通り─甲徳兵衛町を周回する700メートル程度のコースが設定 8月15日 ・黒石よされ津軽民謡組踊り競演 13:30~15:30 ・夜かぐら 18:40 ・開
今日は終戦記念日だ。 戦後生まれの亀仙は 勿論、戦争のなんたるかを知らない。 しかし、仕事柄か体験談というやつは クライアントの年寄り達に嫌という程聞かされた。 これは、半端な数じゃない。 だからこそ、戦争は二度としてはいけないという 先人たちの言葉が身に沁みて分かる。 例えば、ある人は 上官から痰ツボの中身を飲むように命じられたそうだ。 あなたは飲めるかい? でも、こんなことは序の口だ。 大抵の人は気持ち悪くなるだけだろうから これ以上は書かないけどね。 それ程、あの時代は狂気が支配していたということだ。 だから、二度とやってはいけないのだと思う。 そこの無関心な娘さん。 そっちの無関心なお兄さん。 半端な事じゃないんだよ。 もっと、色々な事に関心を持ってな。 ということで 合掌。 ランキング参加してます。 ぽちっと応援宜しくお願いします<(_ _)> ↓↓↓↓↓↓ にほんブログ村 日記
日本の「終戦の日」は8月15日とされている。ただし、その後も日本の戦争は続いていた。早稲田大学の有馬哲夫教授は「ソ連軍が終戦協定に調印したのは9月2日で、それまでソ連軍は日本侵略を続けていた。終戦の日はソ連軍が終戦協定に調印した9月2日に改めるべきだ」という――。 ホワイトハウスにて、日本の降伏を発表するトルーマン大統領。1945年8月14日、ワシントンD.C.(写真=Abbie Rowe, U.S. National Park Service/PD US NPS/Wikimedia Commons) ソ連は終戦協定を結んだあとも侵略を続けた 毎年8月15日は「終戦の日」として、マスコミはこぞって、地面に手をついて玉音放送を聴く人々の映像を流す。日本人はこれを見て、戦争の悲惨さに思いをはせ、平和への思いを新たにすることになる。毎年恒例のメディア・イベントだ。私たちは先の戦争が8月15日に終
「食べれば原子病にかかる」“原子マグロ”登場 3月16日付夕刊では朝日が「マグロ漁船ビキニで原爆浴びる」を社会面トップで、毎日は「ビキニの水爆?実験で邦人漁夫三十三名被災」を1面左肩で追いかけた。毎日が社会面トップに載せた「売られた“原子マグロ” 食べれば被病 都内では一応押える」の記事はその後の騒動のきっかけとなったといえるだろう。(全2回の2回目。#1を読む) ◆ ◆ ◆ 1面所報、ビキニ環礁で原爆に遭遇した第五福竜丸には、同船が南太平洋で漁獲したマグロ、サメが積まれ、その一部は15日水揚げ、出荷されたが、この“放射能の洗礼”を受けた魚について東大名誉教授・都築正男氏は「食べれば原子病にかかる」と警告。事態を重視した(東京)都衛生局と中央市場では直ちに問題の魚を廃棄処分に付する一方市販に回されたものについて販売禁止の通告を発した。
戦後70年の2015年、宮内庁は当時の音声(通称「玉音盤」)を公開。昭和天皇のクリアな肉声や息遣いまで聞き取れるとして話題になった。 BuzzFeed Newsでは「終戦の詔書」の現代語訳と原文を紹介する。 「終戦の詔書」(現代語訳)私は、世界の情勢と日本が置かれている状況とを深く考えあわせて、緊急の手段をもってこの事態を収めようと思い、私の忠良なる国民に告げる。 私は、わが日本政府をもって、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の4カ国に対し、共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を通告させた。 そもそも、わが国民が平穏に、安らかに暮らせるように心がけ、世界が共に栄えて、その喜びを共有することは、歴代天皇が手本として遺してきた教えであり、私も常にその考えを持ち続けてきた。 アメリカとイギリスに宣戦を布告した理由も、日本の自存と東アジアの安定を心から願ったためであり、他国の主権を排除したり、領土を
8月15日は終戦の日です。 1945年(昭和20年)に、日本がポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争の戦闘行為が事実上停止した日です。 この日は水曜日でした。 【読売新聞より引用 発表後50年が経過し著作権は消滅しています】 (時代背景) 1945年(昭和20年)。 日本本土は連日、米軍の空襲にさらされ、ほぼ焼け野原。 空襲が来てもB29には高射砲は届かず、迎え撃つ戦闘機は不足し、飛行機を飛ばす 原料のガソリンもほとんど枯渇していました。 市民生活を見ると、働き手である成年男子が戦場にとられたため農作業従事者や労働力が不足し、国力も低下していました。 食料は配給制になり、物不足が深刻化し、野草やカエルを食べた方もいるなど国民は、耐久生活を強いられ、我慢して生活していました。 おっさんは、当時生きていた方に色々と話を伺いましたが、このような状況でも「戦争に負けるとは思わなかった」「最後は神風が吹い
旧日本海軍の特攻隊員だった男性(94)=八王子市=が、匿名を条件に戦時中の体験を初めて本紙に語った。軍国主義の考え方を経て、戦後に平和主義に転じた男性は「民衆の強い声があってこそ、戦争に突き進もうとする権力者を止められる」と訴える。(竹谷直子) 男性は一九四三年秋、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願し、三重県香良洲(からす)町(現津市香良洲町)の三重海軍航空隊に入隊した。旧制中学五年の時だった。 訓練では、遠泳やアメリカンフットボールのような競技もこなし、体力をつけた。上官の暴力は日常的だった。週に一度は「軍人精神注入棒」と書かれた直径約十五センチの丸太で殴られた。異議を唱える空気はなかった。「殴るのに合理的な理由なんてありません。教官たちはバケツの水で手を冷やしながら交代で全員を殴った。『ありがたいと思え』と言われ、明るい気持ちで応じていた」
たった1枚ですが、全国の主要路線が載っています。 特別付録の「時刻表」1945年7月1日発行号復刻版(画像:JTBパブリッシング)。 JTBパブリッシングから、終戦直前の時刻表復刻版が特別付録として付いた『JTB時刻表』2020年8月号が発売されます。 戦火が激しくなり月刊での時刻表発行が難しくなった戦争末期、特急列車の全廃や急行列車の削減、列車の速度低下、1等車・食堂車・寝台車の廃止など、旅客輸送を縮小する措置が次々ととられました。 そして時刻表も、1945(昭和20)年7月1日発行号はついに“たった1枚”に。しかしJTBパブリッシングは、「たった1枚ではありますが、全国の主要な路線が掲載されているほか、東北本線の始発列車が上野発5時10分であるなど、現在のダイヤの原型をみることができる興味深い時刻表」といいます。 巻頭カラーページは「鉄道への思いとエール」と題し、各界の著名人で鉄道ファ
「僕自身は2016年から古写真をカラー化する活動を始めていたんですが、書籍化につながるきっかけとしては、2017年に広島女学院高校で行った写真のカラー化についての講演でした。たまたま当時学生だった庭田杏珠さん(『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』共著者)が、その講演を聞いてくれていたんです」(著者の渡邉英徳さん) 「当時の写真をカラー化してプレゼントしたい」 「平和活動に積極的に取り組んでいた庭田さんは、講演の少し前の時期、戦時下の写真をたくさん所持されている濵井德三さん(2023年没)とお会いしていたそうで、講演からしばらくして実際にカラー化した写真をプレゼントしたんです。そして、その写真を見ながら濵井さんと対話をしていると、どんどん当時の記憶を蘇らせていたんですよ」(同前) 戦前、「濵井理髪館」の父 濵井德三提供 まるで氷が溶けるように、かつての記憶が取り戻されていく――。
『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』……数々の名作を遺した“マンガの神様”手塚治虫。その手塚が「週刊文春」で連載をしていたことをご存知だろうか。『アドルフに告ぐ』――第2次世界大戦前後の日本とドイツが舞台の大人向けのマンガであり、手塚の“最高傑作”と推す声もある。1983年~85年にわたって連載され、コミック累計450万部超えを記録する同作はいかに生み出されたのか? そして“神様”を担当する苦労とは? 入社2年目で手塚治虫番になり、『アドルフに告ぐ』の連載を担当した文藝春秋の編集者・池田幹生に話を聞いた。(全3回の1回目/#2、#3に続く) ◆ ◆ ◆ 「入社2年目で“神様”の担当になった」 ――池田さんは、1982年に文藝春秋に入社して最初に配属されたのが『週刊文春』編集部だそうですね。 池田 そうです。編集部ではまず特集記事の担当で事件モノをやって、しごかれました。それ
今から79年前の1941年12月、大日本帝国はアメリカやイギリスと勝ち目のない戦争を始めた。 壮絶…ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの告白 「勝ち目がないって、今だからそんなことを言えるんだろ」と、いう人がいるかもしれない。しかし当時も、軍人を含む少なからぬ為政者たちが、アメリカを屈服させることが不可能であることは分かっていた。 では、為政者たちはなぜ戦争を始めたのか。そしてどうやって戦争を終わらせるつもりだったのか。 今回は開戦までの経緯と、戦争終結構想をみていこう。戦争を終わらせるのは戦争を始めるよりはるかに難しいこと、国は、というより為政者たちは時にとんでもない間違いをするということが分かるはずだ。 1930年代から40年代初頭にかけて、中国や南方への進出を進める日本に対し、アメリカは態度を硬化させていった。 決定的だったのが1941年7月の南部仏印進駐だ。アメリカは在米日本資
最近、太平洋戦争真っ只中の時期に、中国古典を研究する学者たちがどのような発言をしているのか、妙に気になってきました。日本と中国が戦争状態に突入する中で、中国古典を研究する学者がどのような態度を取ったのかということは、現代に同じく中国古典の研究を志す私も知っておかなければならないと考えたからです。 中国史・東洋史の学者に関する動きであれば、私でも聞いたことのある話がいくつかあります。例えば、白鳥庫吉は「満鮮地理歴史調査部」を立ち上げて満州や朝鮮に関する歴史・地理に関する研究を進めましたが、これは当時の国策(満州・朝鮮の支配)にコミットする目的がありました。 白鳥庫吉の学問については、吉澤誠一郎氏の「白鳥庫吉と日本における東洋学の形成」という講義がオンラインで公開されていますので、ぜひご覧ください。 また、「満鮮地理歴史調査部」でどのような研究が行われたのか、また参加した研究者が「満州史」「朝
引用元:amazon.co.jp 2012年のアメリカ映画 アメリカ陸軍の中東専門将校だったボナー・フェラーズ(マシュー・フォックス)は、通信に使用していた暗号が解読されて任務から外されてしまう 新しい任務は太平洋戦線のマッカーサー率いる総司令部 時は1945年8月30日 終戦間もない日本の厚木基地に、GHQの最高司令官マッカーサー(トミー・リー・ジョーンズ)が降りたつところから話が始まる アメリカ国内の世論は天皇の訴追を求め(現政権も選挙に勝つためにその声は無視できない)、日本国民からは天皇の処罰には相当な反発が予想され、またマッカーサー自身は戦後の日本を一刻も早く統治するという功績によって将来の大統領選出馬への足掛かりを作ろうと考えている中で、戦犯の検挙そして裁判に向けて活動が開始される 最大のポイントは「天皇はこの戦争に責任があるのか?」 マッカーサーから「10日後に報告せよ」と指令
皆さんおはようございます。昨日は暑かったですね。 大阪は最高気温が38℃、うだるような暑さでした。 私は仕事が休みでしたが、どこも行く気がせず、家で ゆっくりとしていました。コロナと重なり合って大変です。 あと4日で終戦記念日、75年を迎えようとしています。 そんな中、ある方の作文を終戦に書いた物を紹介します。 終わりの思い 我々は負けた。戦争は勝つか負けるしかない。。。 最初は遠征して、奇襲をかけて勝った。 その後の一進一退は短く、後は負け続けた。 喧嘩の場が次第に家の近くになり、近所の広っぱが 庭先になり玄関先まで来た。彼我の勢いが違った。 家の中に押し込まれるという事態になって 仕方なく両手を挙げた。 その前に家の中の女子供まで敵の大量の投石で ずいぶん怖い思いをした。みんな死んだのだ。。。 私などは職務として戦争を選んだのだから 死んでも仕方がない。しかし、徴兵されて 遠い土地へ運
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【ワシントン共同】日米韓3カ国が先月ワシントンで開いた岸田政権発足後初の高官協議で、北朝鮮との信頼醸成措置として休戦状態の朝鮮戦争(1950~53年)の終戦宣言を望む韓国に対し、日本が「時期尚早」として難色を示したことが5日分かった。複数の外交筋が明らかにした。米国は態度を留保し、3カ国の温度差が浮き彫りとなった。 中国で「抗米」映画ヒット 朝鮮戦争、南北は登場せず 韓国の文在寅大統領が9月に国連総会の一般討論演説で終戦宣言を提案後、日本の立場が明らかになったのは初めて。北朝鮮がミサイル実験を繰り返し、核兵器開発と日本人拉致問題で解決への道筋が見えない中、岸田政権は融和ムードだけが拡大することを警戒した。
記録に見る48万人の移動 1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送は、台湾にもラジオを通じて伝えられた。当時、台湾の人口は約658万人。終戦によって人々は日本へ引き揚げると、1946年の台湾の人口は約610万人となった。約48万の人々はどのようにして日本へ向かったのだろう。 MRT永安市場駅から徒歩2分ほど歩くと、国立台湾図書館がある。ここは、日本統治時代に設立された台湾総督府図書館を前身とした図書館だ。そのため当時の資料が多く残されており、貴重な資料が閲覧できる。 台湾図書館に所蔵されている台湾の引き揚げに関する資料は多くない。引き揚げ計画から実行に至るまでの公文書をまとめた『台湾 引揚・留用記録』(河原功監修、ゆまに書房、1997年)、引き揚げの方たちが発行した通信などその後の足跡がわかる『台湾引揚者関係資料集』(不二出版、2011年)を参照しながら、当時の状況整理を試みる。 台湾
15日の終戦記念日に当たり、自民、立憲民主、国民民主、公明、共産、日本維新の会、社民の各党は談話・声明を発表した。各党の談話・声明は以下の通り。 【自民党】 本日、74回目の終戦記念日を迎えました。先の大戦で犠牲となられたわが国並びに全ての国の英霊に対し、衷心より哀悼の誠を捧(ささ)げますとともに、二度とわが国は戦争への道を歩まないと強く決意いたします。 わが国は本年5月に歴史的な皇位継承がつつがなく執り行われ、時代の大きな転換点を迎えました。先の大戦から74年が経(た)ち、昭和から平成、そして令和へと時代が変わりゆく中で、戦争の無い平和な時代が続いています。これはわが国が歴史に謙虚に向き合い、被爆の実相を語り継ぎ、国民一人ひとりが恒久平和の実現に全力を尽くしてきたからに他なりません。
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