またこの記事か。念のため注釈 〇1984年のC26についてのサンケイスポーツの記事(宮崎事件の5年前) 〇「ロリコン」の意味合いは現在とはかなり異なる(2年前の『超時空要塞マクロス』に「ワレラ」「ロリー」「コンダ」なんて3人組がい… https://t.co/zXt4zyqLet
10歳だった。 その時ぼくは、まだ「ソビエト連邦」だったモスクワにいた。 そこで見たのは、「国」というものが劇的に変化する瞬間だった―― 外務省が公開した6000ページにのぼる外交文書。外交官たちの生々しい報告が、私をあの時代に連れ戻した。そして私は、何が起きていたのかを初めて実感した。 (政治部・渡辺信) その書き出しは、文学的だった。 『BUKSOVAT(空転する)。2年1か月のモスクワ在勤を終え帰国する日、空港の暗い待合室で搭乗を待ちながら、ふと、この単語が頭に浮かんだ。ゴルバチョフの始めたペレストロイカを、ひと言で総括するとすれば、まさに「空回りしている」というのが適当ではなかろうか』 1987年11月の「ソ連在勤を終えて」という報告書の冒頭だ。書いたのは、モスクワの日本大使館の政務班長だった角崎利夫氏。これまで私が読んできた硬い外交文書とは異なる表現で、1985年に書記長に就任し
サナータナ満明(挑戦するデザイナー @sanatana_s sanatana design株式会社、代表取締役兼圧倒的平社員。200名ほどのフリーランスサロンオーナーもやってます。いつもパワフルでポジティブなのは毎日のヨガのおかげ。 https://t.co/qC1c44oeeh サナータナ満明(挑戦するデザイナー @sanatana_s ただの自慢なのですが、私の電卓は、ヴィンテージApple。 これ実は中身canon。つまり、迷走したAppleが名前貸しだけのダサイ形で小銭を稼いでた時代のもの。 コード1本でも自前で作りパッケージ、販売店すらも1つの思想で統一されている今のAppleからは考えられないプロダクトでとても気に入ってます pic.twitter.com/KLiMZGV7PY 2020-01-21 12:15:35
ユニクロでバイト始めて一年になる。正月からの三日間は、よくもここまで人が集まるなと感心するほど店舗が賑わっていた。 いや、セール期間に限らずユニクロは常に老若男女で溢れている。 ところで本題だが今のアパレルって大別すると ・ハイブランド ・セレクトショップ ・ユニクロ(を中心としたファストファッション郡) ・お母さんがどこからか仕入れてくる激ダサ量販店 て感じに分かれると思うんだけど、ユニクロ、GUなんかが流行る前は特におしゃれでもない一般人はどこで服買ってたの? ユニクロ以前にも「安価であまり外れがないファッションブランド」ってのがあったの? 服屋で働いてるくせにアパレルの知識がないから全くわからん
※本ページの全ての画像権利は別途表記が無い限り、徳間書店に帰属します。 同時に、人物肖像権もその権利所有者に帰属しますので、画像の転載などは行わないで下さい。 また、本ページは非営利による資料保存・共有化を目的としており、掲載に関しては引用の範疇を心がけておりますが、権利の侵害を訴えられる場合は至急対応させて頂きます。 各権利者様には御迷惑をお掛けしますが、法的手段を取る前に何卒御一報頂けますようお願い申し上げます。 ※記載情報には細心の注意を払っておりますが、もし間違い等がございましたら掲示板等でお知らせ頂ければ幸いです。 また、本ページにより生じた全ての二次損害はお受け出来かねますので、あくまで自己責任にて御利用頂けますよう予め御了承下さい。 ※お名前が記載されている方は、C.G.作品などが表紙に掲載されている方で、特別な場合を除き全て敬称略になっております。 また都合により名前を伏せ
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
イラストレーターの永井博さんのアトリエで。手がけた「Pacific Breeze」のジャケットが米国で「Best Illustrated Vinyl LP」を受賞(撮影/岸本絢) 1970、80年代の都会的で洗練された日本産の音楽「シティ・ポップ」が当時を知らない国内の若い世代だけでなく、海外でも人気になっている。音楽やアートがつむぎ出す「懐かしさ」の正体とは。 【竹内まりや、大貫妙子、佐藤博…シティ・ポップのオススメ5枚はこちら!】 * * * 韓国・ソウルにある音楽バー「マンピョン」に、多くの若者が集っていた。重低音が響くなかで流れているのは日本語の曲。1984年リリースの竹内まりやの曲「プラスティック・ラブ」だ。その原曲から、山下達郎による同曲のライブバージョンが続けて流れると、若い男性客が感極まって曲に合わせて歌いだした。自身もDJをしているというその男性は、このイベント「Fr
常軌を逸した手法でアニメを25年作り続ける男が居た──セルをクリアファイルに描き、声優、音楽、その他全てを1人で完成させるクリエイターはいかしにして生まれたか【伊勢田勝行インタビュー】 20年以上前から現在に至るまで、ほとんど誰からも評価されることなく孤独に自主アニメを作り続けたクリエイターがいる。彼の名前は伊勢田勝行(51)。 普段見慣れた商業アニメと比較すると、彼の作品は決して良い出来栄えではないかもしれない。しかし、見る者に強烈な違和感を残す作品であることは確かだ。 彼はアニメを制作するのに、一般的な制作方法を採らない。後に本記事にて詳細を紹介するが、動画編集ソフトをはじめ、パソコンを使った方法に依らずに制作しているのだ。それだけでない。彼はキャラクターの絵、テーマソングの作詞作曲、セリフのアフレコ……このアニメにまつわるすべてを独力で完成させている。 しかし、これだけの労力を割いて
メディア芸術領域の現状をより深く、広く伝えるため愛称を「MACC」とし、総合的な広報用ウェブサイト「メディア芸術カレントコンテンツ(MACC)」として令和5年2月13日リニューアルオープンしました。 (https://macc.bunka.go.jp/) 当サイトは、これまでの記事をアーカイブとして掲載しています。 今でこそ日本マンガは世界中で熱狂的なファンを獲得している。しかし、日本マンガの海外進出のきっかけが個人の情熱であったこと、その苦労の道のりをご存知だろうか。本コラムでは、海外コミックの翻訳や海外の日本マンガ事情に関する記事を執筆する筆者が、日本マンガを海外に紹介した先人たちを取材し、知られざる日本マンガの国際化の一端を探る。 『MANGA』表紙 日本マンガをアメリカへ 日本マンガのアメリカにおける出版の歴史を考える時、その嚆矢は小学館が現地に子会社Viz Communicati
出渕裕氏のデザインしたロボットといえば、「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」(1988年)のνガンダム、「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」(1989年)のアレックス、「機動警察パトレイバー」(1988年)のイングラムなど、現在でも新たに商品化される超人気メカが多い。 しかし、10代でアニメ業界に出入りするようになった出渕氏は主役ロボットではなく、1話かぎりで倒されてしまう敵側のロボット、俗に言う“やられメカ”専門のデザイナーとして制作現場で重宝された。その長い仕事歴の裏には、物語や作品に対する独特の美学が息づいていた。 僕が描いていたのは、絵コンテ用のアイデアラフだった ── 出渕さんが敵メカをデザインしたのは、「闘将ダイモス」(1978年)が最初でしたね。デザインするとき、長浜忠夫監督から何か特別なオーダーはあったのでしょうか? 出渕 最初、「ダイモス」の敵メカは、聖悠紀さん
1947年富山県(日本)生まれ 川崎市(日本)拠点 本作は1975年から10年間ニューヨーク滞在中に制作され、1986年、富山県立近代美術館主催「86富山の美術」で展示される。1993年、大浦は制作の意図を次のように語った。 「自分から外へ外へ拡散していく自分自身の肖像だろうと思うイマジネーションと、中へ中へと非常に収斂していく求心的な天皇の空洞の部分、そういう天皇と拡散していくイマジネーションとしての自分、求心的な収斂していく天皇のイマジネーション、つくり上げられたイマジネーションとしての天皇と拡散する自分との二つの攻めぎあいの葛藤の中に、一つの空間ができ上がるのではないかと思ったわけです。それをそのまま提出することで、画面の中に自分らしきものが表われるのではないかと思ったのです。」(大浦信行「自分自身の肖像画として―作家の立場から」、1993年6月6日、富山近代美術館問題を考えるシン
ななあき @seven_fall #特撮で自分の知ってる知識を一つ挙げろ 仮面ライダーWが放送された2008年は、ちょうど探偵物語の放送30周年に当たる。同じ東映制作ということもあり、共通する部分も多い。また鳴海探偵事務所のデスクは、探偵物語で使用されたものと同じものである。 2015-03-04 21:03:27 ダブルート @dansan211293 #特撮で自分の知ってる知識を一つ挙げろ #仮面ライダーW の初期案の舞台は、風都ではなくヴェネツィアのような『水都』 ただ、「水場の撮影はただでさえ大変で年中は無理」と監督達から反対意見が出て、 「風ならば初代ライダー」ということも後押しとなり風都になった 2018-04-18 05:24:50
1982年当時『ロリコン』という言葉の意味合いは 1982年当時、『ロリコン』という言葉の意味合いは今と大きく違ったそうです。 『ロリコン』という言葉が広がったのは 『ルパン三世 カリオストロの城』の影響が大きかったらしく 当時は、『ロリコン』という言葉の意味が正しく伝わっておらず 「ロリコン=美少女」と認識していたアニメファンが多かったそうです。 そのため『ロリコントランプ』とは 『美少女トランプ』という意味合いで付けられた名前の様です。 ムエンステリ @R_muensteri @meika_sabou ロリコンという単語がアニメファンに広まったのには カリ城が大きく関わってますので ※「妬かない妬かないロリコン伯爵、火傷すっぞ」 ※この時点ではロリコンの意味を正しく把握してる者少なく 「クラリスみたいな娘を好きなのがロリコンなら自分も」という誤解から 自称する中高生男子発生 2019-
初代ウォークマンをウォークマン40周年展に持ち込んだら #mywalkman:立ちどまるよふりむくよ(1/2 ページ) ソニーが7月1日に始めたイベント「#009 WALKMAN IN THE PARK」に行ってきた。1979年7月1日に初代ウォークマン「TPS-L2」が発売されてちょうど40周年ということで、現在はデジタルオーディオプレーヤーとして続いているウォークマンの歴史を振り返る展示会である。銀座の旧ソニービル跡地にできた銀座ソニーパークで9月1日まで開催されている。 ぼくの目的はただ1つ。初代ウォークマンの完動品を聴くことだ。 この連載で昨年末に取り上げた、初代ウォークマンをゲットした顛末記。これの続きである。 復活! 初代ウォークマン 動かないカセットプレーヤーで音楽を聴く方法 昨年末にTPS-L2を1万8000円にてメルカリで購入。ただ、この初代ウォークマンはモーターが動かず
ライター: 村中貴士 大阪府出身。日々エッジの効いたネタを探し続けるフリーライター。得意ジャンルはサブカル、テレビ、音楽、現代アートなど。デイリーポータルZ 新人賞2017で佳作。自称・無料イベントマニア。 いまカセットテープが売れています。そう聞くと、30代以上の人は「なぜいまさら?」、「もう終わった音楽メディアでは?」と感じるかもしれません。 単なる懐古趣味かと思いきや、若者たちも巻き込み、盛り上がりを見せるカセットテープ。近年は新譜をカセットでリリースするアーティストも増えているとか。 カセットテープが再び注目を浴びるのには、どんな背景があるのか? 中目黒のカセットテープ専門店「waltz(ワルツ)」店主、角田太郎さんにお聞きしました。 カセットテープの再評価は、すでに5年前から始まっていた ——カセットテープ専門店って、珍しいですよね。どういったきっかけでお店を始めたのでしょうか?
中国・北京(Beijing)で、天安門(Tiananmen)事件から25年となる4日、厳戒態勢が敷かれている天安門広場(Tiananmen Square)周辺に動員された警察官(2014年6月4日撮影)。(c)AFP/GOH CHAI HIN〔AFPBB News〕 日本列島がバブル景気に沸いていた1989年4月。中華人民共和国では学生たちが「変革の夢」を胸に、天安門広場へと集まっていた。およそ1カ月半後、世界を震撼させる大弾圧の舞台になるとも知らずに――。事件から30年目の今年(2019年)、天安門事件に関わった60人以上を取材した大型ルポルタージュが話題を呼んでいる。この度、大宅壮一賞を受賞したノンフィクションライターの安田峰俊氏が、2011年より足かけ8年を費やし完成させた『八九六四』。同書から、事件の当事者の生々しい証言を2回に分けてお届けする。前回に続き登場するのは、当時、天安門
“GAME MACHINE” A R C H I V E presented by Amusement Press Last updated on June 12, 2020 To all international visitors of Game Machine Archive 新聞「ゲームマシン」(Game Machine)は、アミューズメント通信社が発行しているアミューズメント業界紙です。 1974年以来、TVゲーム機を含む業務用アミューズメントマシン、遊園施設などに関する業界ニュースを、月2回のペースで伝えてきました。 「ゲームマシン」アーカイブをご利用の際は、以下の「アーカイブを公開するに当たって」をお読みになった上で閲覧されるようお願い致します。 「ゲームマシン」アーカイブを公開するに当たって 「ゲームマシン」アーカイブは、アーケードゲームやアミューズメント業界についての情報
1980年代、中高生の昼間のディスコ通いがブームに 元号は『令和』に変わり、徐々に平成も過去になっていく。昭和の時代はもう、はるか昔の出来事になった。 昭和では当たり前ことも、令和の今になって思うと 「そんなこと本当にあったの?」 という非常識な出来事だったりする場合も多い。 『新宿ディスコナイト 東亜会館グラフィティ』(東京キララ社)という、1980年代の歌舞伎町のディスコ事情を描いた本を読んで心底ビックリした。 当時は、昼間から歌舞伎町のディスコに、大勢の中学生~高校生が入りきれないほど押し寄せ、日々激しいダンスを踊っていたという。 僕は46歳なので昭和はまずまず覚えているが、そんなムーブメントがあったとはとんと聞いたことがない。そんな文化は本当にあったのか? あったとするなら、なぜそのような文化は生まれ、そして消えていったのだろう? 本の著者である、中村保夫さんにお話を伺った。 「確
ゼネラルプロダクツが発行していた会誌『パペッティア通信』VOL.1・3(1982年11月発行)の深川岳志「だまされちゃいけない! これがホントのTOKONⅧレポート」を読んでいて「ん?」となった箇所があった。同誌P.5より。 (前略)いよいよ期待のゼネプロアワーの時間がやってきた。狭い特設舞台を十重二十重に取り囲んだ人垣の盛大な拍手の中、岡田武田組の登場。店の宣伝でもやるのかと思えば、なんのなんの、世にもエグい即興漫才が始まった。別段打ち合わせというほどのものはなにもしなかったらしく、前の晩に、とりあえずこれとこれはエグいし下品だしTOKON側を刺戟するだけだからやらないでおこうと決めたことを全部喋ってしまった、と後で云っていた。その酷さたるや言語に絶するもので、あまりの酷さ故とてもここには記せないが、百人以上の観客を前にして正調ピカドン音頭を教授したことからもその酷さは想像できるであろう
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く