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中東情勢
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去る2018年11月30日、文化庁主催シンポジウム「芸術資産『評価』による次世代への継承──美術館に期待される役割」が開催された。文化庁主催ということ、およびそのタイトルから来場者の多くが予想・期待したのは、同年5月に突然報道され議論を呼んだリーディング・ミュージアム(先進美術館)をめぐる、その先の議論であっただろう。このことも念頭に置きつつ、シンポジウムの概要をレポートしたい。 「芸術資産」をめぐって 登壇者は6名。ファシリテーター的役割も担った青柳正規(東京大学名誉教授、山梨県立美術館館長、前文化庁長官)、経済学の領域から柴山桂太(京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)、また研究者側から加治屋健司(東京大学大学院総合文化研究科准教授)、アーティストの名和晃平、建築家の田根剛が参加。さらにコレクターの岩崎かおりも開催告知後に参加が決まった。前半は青柳の基調講演および柴山との対談、後半は
日本の美術館情報が少しずつ開かれてきている。東京2020大会が近づく中で、書籍やアニメ、文化財、自然史といった膨大な資料を横断的に検索できるポータルサイト「ジャパンサーチ」の試験運用が2019年1月から始まる予定であり、美術情報の検索利便性が上がることが期待される。また、美術図書館連絡会(ALC: The Art Library Consortium)では昨年「美術図書館横断検索」の英語版が追加され、東京文化財研究所はゲティ研究所と協定を結び、日本美術に関するデジタル情報を「Getty Research Portal」へ公開する予定である。美術館発信の情報量が増えてきたが、日本の美術館は何を、誰のために、どのように情報発信しているのだろうか。美術館の情報化の現場で活躍されている国立西洋美術館の川口雅子氏に日本の美術館情報の現状をご執筆いただいた。(artscape編集部) 1. 国立美術館
美術館や博物館を訪れる体験のなかでの隠れた目玉のひとつとして、近年ますます多くのアートファンの心を惹きつけているのが、ミュージアムショップとそこで扱われる数々のグッズだ。ポストカードや文房具、お菓子といった幅の広さもさることながら、その館のロゴなどが配されたオリジナルグッズや、企画展や館の所蔵作品に呼応して開発されたグッズなど、そこにはただの“お土産”にとどまらない創意工夫が凝らされている。 そもそもミュージアムショップという存在はどのように生まれ、現在の形に変化していったものなのか。ミュージアムグッズ愛好家として活動する大澤夏美さんより、そのヒントとなる「ミュージアムショップ/ミュージアムグッズことはじめ」をご寄稿いただいた。あわせて記事の最後では、全国のミュージアムショップで扱われる商品のなかから、個性豊かなチョコレート商品を網羅的に集めてみた。現在のミュージアムショップ/グッズの多様
メディアから考えるアートの残し方 第1回 エキソニモインタビュー 赤岩やえ(エキソニモ)/千房けん輔(エキソニモ)/水野勝仁(インターフェイス研究) 2018年11月15日号 美術館ではコンサバターやレジストラーといった専門家が、貴重なアート作品の保存や修復、管理を担っています。しかし、モノとして保存することが難しい作品の場合、どのように未来に伝え、残すことができるのでしょうか。近年、メディアの特性を活かした作品の再制作や再演といった試みも行なわれています。作品の記録や保存のあり方をめぐって、メディアの視点からアートの保存、そして「作品」というあり方を捉え直す企画を連載します(全3回)。 連載初回は、数々のメディアアートを世に問うてきたアートユニット、エキソニモへのインタビュー。彼らがゲストキュレーターを務めた「メディアアートの輪廻転生」展(山口情報芸術センター[YCAM]、2018年7〜
これまで2回にわたって紹介してきたように、このところアートマーケットに対する一般からの関心が少しだけ高まり、政府や産業界からも注目を浴びつつある。ある意味で流動的なこの状況に対して、若手アーティストの中には受け身になるのではなく、アーティストが主導しながら状況に対峙しようという試みが出てきている。2018年夏には中崎透の監修による「スーパー ローカル マーケット」とカオス*ラウンジによる「現代美術ヤミ市」が開催された。そのうち後者について、作家活動をしながら地域芸術祭のキュレーションや作品売買のプラットフォーム作りにも携わるユミソンがレポートする。(編集部) 「現代美術ヤミ市」 最近、著名人が現代美術の作品を売買する話題が一般メディアを賑わすことが珍しくない。その程度まで、現代美術の売買への世間一般からの認知度があがっている。また様々なレベルのアートフェアの開催や、インターネット上で容易に
フードスケープ/foodscape、つまりは食と農が織りなす生と死の社会風景を、人類学や文化研究といった人文社会科学のアカデミズムに属さないアーティストが、自前の方法論をもって踏査する。ついで、独自の視点からその絵柄を作品やワークショップ、あるいは合目的化したドキュメントに設え、食の行為の生々しさ、禍々しさ、奇矯性から本来はほど遠い秩序空間である美術館や種々のアートサイトやイベントで披露する。はたしてそれは、芸術と社会との新しい契約関係を期待する「芸術的活動家」の、自己同一性の投企なのだろうか? いずれにせよ、芸術的表象としての食物や食事ではなく、食物生産や摂食の営みそれ自体に何らかの社会的な媒介性を仮定して、その意義、可能性、矛盾を作品やプロジェクトに翻案する、そうしたアーティストの態度を世界のそこかしこで目にするようになってずいぶんな時がたつ。 フードアートの現在 私の場合は、ドイツの
予め作曲家によって決められた、平均律の半音階12音による音列で構成する作曲技法。19世紀後半から生じた無調が20世紀に入って先鋭化し、1925年にシェーンベルクが12音技法を考案した。当初は彼の弟子周辺にしか知られていなかったが、1930年代にS・ヴォルペらドイツ・オーストリア圏からの亡命作曲家がアメリカに12音技法をもたらした。日本では1950年代に入ってから入野義朗が12音技法での実作を始めた。調性音楽の場合、ある調を構成する音階内の音は主音や属音といった機能を担い、そこには明確なヒエラルキーが存在する。一方、12音技法では各音の機能や音列内のヒエラルキーは存在しない。平均律上の12音すべてが同等に扱われ、音列内の音の重複や反復を避けることで理論的にも聴覚的にも調性感を回避する。12音技法による音楽は音列の変形と置換からなり、基本形の音列の終点から始まる逆行、音列の第1音を軸にして反転
デジタルアーカイブは、社会の情報基盤のひとつとして広く認識されてきた。市民目線から見るデジタルアーカイブ、生活に根差したデジタルアーカイブとはどのようなものなのか。『手と足と眼と耳:地域と映像アーカイブをめぐる実践と研究』(学文社、2018)の編著者であり、メディア論、社会思想、情報記号論の研究をベースに、地域コミュニティによる映像アーカイブの現場に立つ、東海大学文化社会学部広報メディア学科教授の水島久光氏にご執筆いただいた。(artscape編集部) ダムに沈んだ街、大夕張──写真に残されたかつての賑わい 財政破綻で耳目を集めた北海道夕張市の東部に、かつて住民が誇りを持って「大夕張」と呼んだエリアがあった。三菱大夕張炭鉱の城下町で、最盛期の1950年代には2万人の人口で栄えた夕張市鹿島地区、いまは国内最大規模の多目的ダムで全国第2位の湛水(たんすい)面積を誇る夕張シューパロダムに沈んだ街
ゴードン・マッタ=クラーク展を見ながら考えたのは、かつて東京でも起きていたであろう20世紀の都市の変化に、ニューヨークで対峙していた彼の実践と感覚を、どうやったら現代のこの場所に取り戻せるかであった。アートから見えてくる現在の都市と公共を一巡しつつ、マッタ=クラークの普遍性を考えてみたい。 地域アート、コミュニティアートとしての《フード》 展覧会場のキャプションの多くにめずらしく各作品の住所が書かれている。それらを地図にプロットしてみると、郊外の作品以外はだいたい4km四方のコンパクトな範囲に収まっていた★1。作品の制作が地域に根ざしていたと捉えていいだろう。マッタ=クラークがアーティストたちと運営していたレストランの《フード》はその中心に位置し、地域アートやコミュニティアートとして見るほうがしっくりくる。展示されている《フード》のドキュメント映像を注意深く見ていくと、コミュニティのなかで
寺井元一(まちづクリエイティブ代表、アソシエーションデザインディレクター)/城一裕(九州大学芸術工学研究院准教授)/石川琢也(山口情報芸術センター[YCAM]エデュケーター) 2018年06月15日号 千葉県松戸市の一角に「MAD City」と呼ばれるエリアがある。2011年からこの場所で特異なまちづくりを仕掛けるのは、まちづクリエイティブ代表の寺井元一氏。日本各地でアートとまちづくりの関係が試みられるなかで、地域とアートはどのように関わることができるのか。MAD Cityでプロジェクトを企画した城一裕氏と、「地域開発ラボ」を有する山口情報芸術センター[YCAM]の石川琢也氏が、8年目を迎えたMAD Cityの取り組みを振り返りながら、地域とアートの可能性を探る。(編集部) 街を使った表現活動を支援する 石川琢也──寺井さんは松戸市で「MAD City」の取り組みをされる前に、どんな活動を
※《紫・むらさき XVII》の画像は2018年5月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。 絵画という装置 美術館の企画展が太陽なら、常設展は月かもしれない。いや、常設展のほうが太陽なのかもしれない。数年間の周到な準備期間を経て、国内外から逸品が一堂に会する企画展は、メディアにも大きく取り上げられ、貴重な美との出会いに多くの人々が集まり華がある。一方、美術館の所蔵品を鑑賞する常設展は、行列に並ばなくてもゆっくりと鑑賞できる。常設展は、いつ行っても常に同じ作品と思いがちだが、季節や所蔵品の特徴を引き出すテーマによる入れ替えなどがあり、時にはキラッと光る思いがけない作品と出会うことがある。歴代の学芸員らが収集してきた作品は美術館の骨格とも言えるだろう。しかも鑑賞料は企画展よりお安い。心と体のために、全国常設展めぐりというアートツアーも計画できそうだ。 東京国立近代美術館
絵の具の「塗り」を強調した絵画のありようのこと。「絵画的であること」などと訳される。より具体的には、輪郭が曖昧で開放的な形態、形態よりも色彩の力の重視、素早く、ダイナミックなタッチの多用、色むらの効果的な利用、といった特徴のこと。クレメント・グリーンバーグはこれを、抽象表現主義の絵画の重要な特徴だとした。ただこのペインタリネスという概念は、単独で十分な意味を発揮するものではない。「線的であること」、つまりドローイング=素描、あるいは閉じられた明確な輪郭「線」を強調した絵画のありようとの対比のなかで、理解されなければならない。この対概念はもともと美術史学者ハインリッヒ・ヴェルフリンによる。彼はルネサンス美術からバロック美術への展開を「彫塑的 (plastisch)/線的」から「絵画的(marlerisch [=painterly])」への展開とし、またこの理解がほかの時代の展開にも応用できる
ウィム・クロウエルはオランダ生まれ、今年90歳になるグラフィックデザイナーである。デザインのルールを「グリッド」におき、システマティックにレイアウトを決めるグリッドシステムを推進したことで知られる、まさに20世紀のデザインを切り拓いたパイオニアだ。 クロウエルの仕事の全容を紹介する国内初の個展が、現在、京都dddギャラリーで開催中である。同ギャラリーの熊本和夫氏にクロウエルの仕事と今回の展覧会についてお話を伺った。(artscape編集部) 「ウィム・クロウエル グリッドに魅せられて」展 会場風景 [Photo: Akihito Yoshida] この展覧会を開くことになった経緯をおきかせください。 オランダ出身のデザイン界の巨匠であるにもかかわらず、いままで日本で展覧会は開かれていませんでした。2年前にご本人にオファーしたところ、快諾を得ました。全作品がご本人からアムステルダム市立美術館
メトロポリタン美術館の分館メット・ブロイヤーで開催されている彫刻展が、春シーズンの展覧会で、とりわけ注目を集めている。企画はメトロポリタン美術館のヨーロッパ彫刻・装飾部門と近代・現代美術部門の2部門によるコラボである。14世紀の大理石や木彫のものから、フィギュア、蝋人形、人体模型なども含む現代までの西洋美術における彫像作品を通して、歴史や理論、時間と空間、社会と文化を比較し、人体の立体表現を検証する構成だ。展示作品は900点の候補作品から約120点が選出された。 本展では展覧会タイトルの、彫刻、色、ボディをキーワードに、テーマごとに異なる時代の作品を隣接させ、時空間を超えた思いがけないコンセプトが遭遇し、新しい解釈を引き出そうとしている。また、彫像における「色」の適用は重要な要素として捉えられている。色は皮膚や肉体を呼び覚まし、彫像に人種や文化、階級や性別を与えるのだ。さらに、人間の髪、骨
世の中には色々なお金の使い方や運用方法があります。一般的にその中でも身近ではないものが、現代アートを買うことではないでしょうか。 (中略)日本は、国全体としても投資を続け、各県に一つ以上は美術館もあり、地域でアートイベントが多数開催されるようになってきました。ここでさらに個々人が、現代アートを「買うことができるもの」と見ることができるようになれば、美術イベントに行く楽しみも倍増し、見る目が鍛えられるのではないでしょうか。 また同じ時代に生きる作家の作品は、生きている現代の状況を反映しています。現代アートを買い、家に飾ったりすれば毎日見ることができて生活の清涼剤ともなり、同時に文化の支援者にもなるという体感もできます。 資産価値としても、世の中の買えるものの大半は経年劣化で価値が減少していきますが、美術作品は長期保有することで作家が成長して活躍していけば価値が上がる性質があります。単なる買い
日本で育った大多数の人々にとって、「美術」「彫刻」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、古風な衣服をまとった西洋人の石膏像と並び、駅前や公園など、屋外の公共空間にある記念碑的な人物銅像(その多くが裸体を晒している)ではないだろうか。しかし(「美術」「彫刻」という言葉と同じく)国内でそうしたイメージが定着したのはそれほど古いことではない。その過程に何があったのだろうか? 最近のartscapeでも、 3月1日号村田真レビューでは「小沢剛 不完全─パラレルな美術史」展、また同じく4月1日号の星野太レビューで荒木慎也『石膏デッサンの100年──石膏像から学ぶ美術教育史』がピックアップされている。今号では、彫刻家で彫刻・銅像・記念碑研究者の小田原のどかが、公共空間での「女性」裸体像の起源に迫る。なお本稿に関連し、昨年4月15日号高嶋慈レビューによる小田原の個展「STATUMANIA 彫像建立癖」評も参照
今春、2018年4月1日、国立美術館の映画専門機関として「国立映画アーカイブ」(英語名称:National Film Archive of Japan[略称 NFAJ])が東京・京橋に誕生した。2年後に迫った東京オリンピック・パラリンピックを前に、その文化プログラムが全国各地で行なわれているほか、文化庁が東京・霞が関から京都市へ、2021年度中の本格移転に象徴されるように、日本の文化政策は歴史的転換期を迎えている。「国立映画アーカイブ」は、東京国立近代美術館フィルムセンターを改組し、独立行政法人★1国立美術館の6館目の機関となる。わが国初の映画文化振興のナショナルセンターとして機能を強化させ、国立の施設では初めての「アーカイブ」という名をつけた映画アーカイブだ。1895年にフランスで生まれ、娯楽性と芸術性が共存する映画と、デジタルアーカイブはどのように連関していくのだろうか。初代館長の岡島
いまここでしか見ることのできない展覧会をつくる ──学芸員としての35年を振り返って 川浪千鶴(高知県立美術館) 2018年04月01日号 私が福岡県立美術館から高知県立美術館に移籍したのは、2011年の7月。今年の3月末に約7年間の任期が終了する。美術館の学芸員を都合35年以上続けたことになる。好きなことを仕事にできてうらやましいとよく言われるが、好きだけではこうも長くは続けられなかっただろう。とはいえ、飽きずに歩んできた道のりを振り返ってみれば、それが美術と美術館の魅力を説明することにつながるかもしれない。 1980年代に福岡県立美術館に採用された私には、「地域と人々に育てられた学芸員」という自負がある。福岡という都市空間とそこで展開されたアートシーンの賑わいは、90年から2000年にかけて目を見張るものがあった。公立美術館や民間組織の垣根を越えたプロジェクトなどを通じて学び、影響を受
今回のお題は「AOMORIトリエンナーレ2017」。棟方志功の出身地ということで「版画のまち・あおもり」を掲げる青森市が1998年に市政100年を記念してスタートさせた公募展「あおもり版画大賞展」がそのルーツである。2001年からは「あおもり版画トリエンナーレ」と改称し、2007年の3回展からは「あおもり国際版画トリエンナーレ」という名称の国際公募展に。そこから2回の開催を経て、2014年には「AOMORI PRINT トリエンナーレ2014」とみたび変化、「版」をテーマに「作品公募」と空間表現を競う「企画制作公募」の2部門制となる。今年度は「さらに拡張」(開催概要より)し「PRINT」という言葉を削除した「AOMORIトリエンナーレ2017」として開催された。毎回のようにタイトルや内容が変わるためか、正直に言うと青森に住んでいてもなかなか印象の定まりにくいプロジェクトではある★1。今回つ
今年2月10日から2週間にわたって、東京・青山通りの特設会場で会田誠展「GROUND NO PLAN」が開催された。現代美術の分野のみならず、建築や都市論に関わる専門家の間でも大きな論議を呼び、最終日には入場のため、長蛇の列ができたという。この展覧会は大林財団が始めた新しい助成プログラム「都市のヴィジョン──Obayashi Foundation Research Program」で選ばれて実現したもの。推薦選考委員の5氏(住友文彦、飯田志保子、野村しのぶ、保坂健二朗、藪前知子)の全員一致で決定したという。 長年、東京を拠点にし、この都市の激しい変遷ぶりを目撃してきた村田真氏にこの展覧会について寄稿していただいた。 六本木に暮らしてもう20年以上になるが、この間に街は劇的に変わった。テレビ朝日とその周辺の住宅地は大規模開発されて六本木ヒルズに生まれ変わり、防衛庁の庁舎があった檜町地区は公園
さる2月18日(日)、国立新美術館において報告会が開催され、文化庁の助成プログラムで採択された4団体による成果報告が行われました。 平成29年度の文化庁の助成プログラムを受けた4団体は、それぞれ作品や作家に関連した資料の整理と保存のため、資料のデジタル化・データベース化を「アーカイブ」というキーワードで構想から実践へとプロセスを進めていました。 この助成プログラムは、応募要件として、「主たる対象とする芸術運動は,日本の戦後美術の中でも,特に国立美術館で作品を所蔵する作家に関連するものとする。また,研究対象として国際的にニーズが高いものとする。」と定めています。平成30年度も一定の規模で継続される見通しであるということで、実践的な取り組みが加速し、国際的にも注目が集まる日本現代美術の地位を高めることが期待されます。 吉間仁子「来たるべきアート・アーカイブとは<報告>」 カレントアウェアネス
キオ・グリフィス(ヴィジュアル・サウンド・アーティスト、キュレーター、デザイナー) 2018年03月01日号 移民が流れ着く地方都市のような大都会、ロサンゼルス。映画都市でもあるこの街は、半世紀前に計画的に創造され、マシンカルチャーを中心に動く、砂漠から蜃気楼のように実現した未来都市である。その未来都市も、映像世界で予知された2010年代に到達するとレトロ化して見えるものだ。テクノロジーのスピードと未来への遠い憧れが交錯した状況のなか、大小様々なアートスペースが登場し、ロサンゼルスはようやく美術の首都として変貌しつつある。他方で、激しいジェントリフィケーションへの地元住民の反発がアートスペースに向けられる現象も起きている。 増え続けるオルタナティブスペース この不確実で不定形な有様も、西海岸の文化の特徴なのだろう。長い間、ニューヨークのアートシーンに反抗するスタンスを維持することでアウトサ
会期:2017/12/28~2018/01/28 zittiほか、泉駅周辺の複数会場[福島県] 福島のワークショップにあわせて、カオス*ラウンジによる新芸術祭に足を運んだ。が、行政の芸術祭とは違い、幟やポスターはなく、本当にここで開催しているのかと不安に思いながら、泉駅からそう遠くない住宅地にあるサブカルの古物(?)店に多くの作品がまぎれた第一会場へ。まず店内で珈琲をいただき、第一の手紙と地図を受け取る。それに従い、駅周辺をぐるぐる歩く(第二、第三の手紙もあり、次の目的地が示される)。それはこのエリアの近代における廃仏毀釈と黒瀬陽平らのリサーチをたどるツアーにもなっている。移転や区画整理された人工的な墓地などを鑑賞し、これから新しい寺を創設するという第二会場へ。力作である。建築の分野ではユニークな造形による現代寺院の試みはさまざまあるが、壁や襖などを使い、室内においてアートの側から新しい仏
イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト ──ポスト・インターネット以降のイメージの流通から考える 水野勝仁(インターフェイス研究)/高尾俊介(メディア研究) 2018年02月15日号 インターネットの存在は、すでに私たちの生活に欠かすことのできない社会インフラであると言える。こうした状況に立脚した作品が美術館に現われ始めた。これらの作品は、イメージとオブジェクトの関係をどのように更新するのだろうか。今日のイメージの流通のあり方を通して、インターフェイス研究の水野勝仁氏とメディア研究の高尾俊介氏が考える。 そもそも「ポスト・インターネット」とは 高尾俊介──ポスト・インターネット以降の「イメージの流通」とありますが、そもそもこれから語ろうとする「ポスト・インターネット」という言葉は何を意味するのでしょうか? 水野勝仁──「ポスト・インターネット」とは「オンラインとオフラインの区別がもは
建築ドローイングとは何か? ──「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s − 1990s」展 米田尚輝(国立新美術館) 2018年01月15日号 一般に、美術館において建築そのものを原寸大で再現展示することは難しい。だから、写真、模型、図面、映像などの建築に関連する「資料」を展示することが建築の展覧展を実現する手法の通例となっている。この限りにおいて、「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s − 1990s」展(国立近現代建築資料館、2017-18)もまた定石とされる方法で実現されている。しかしながら、作品と資料を明確に区別することは実のところ難しいもので、ここでは本展で試されている展示方法の特筆すべき性格を確認してみたい。 相次ぐ建築の展覧会 近年、日本の建築にまつわる展覧会が立て続けに開かれており、そのすべての展覧会においてこうした「資料」を中心に展覧会は構成されている
展覧会ディレクターには、思想家で人類学者の中沢新一を迎えます。中沢は、各地のフィールドワークを通じて、時代や領域を横断し、学問の垣根を超えた研究を行ってきました。(中略) 現代における野生とはなにか。自身の内に潜む野生をどのように見いだすのか。見たことのない物事の意味をどのように理解し、表現するのか。 本展では、現代の表現者たちのもつ野生の魅力に着目し、さまざまな作品や資料を通して、その力を発動させるための「野生の発見方法」を紐解いていきます。 [美術館サイトより]
2017年「東京アニメセンター」が秋葉原から東京・市ヶ谷のDNPプラザへ移転し、国立新美術館では国立として初めてとなるアニメーション展が行なわれている。クールジャパンの具体例として名が挙がるアニメーションだが、その作品や資料の保存については語られる機会が少ない。アニメの原画と映像保存の現状、アニメアーカイブの対象範囲と分類法、原画のデジタル化手法、アーカイブ構築の方法、業務での利活用と資料の公開状況など、アニメーションアーカイブの現状をプロダクション・アイジーのアーカイブグループリーダーである山川道子氏にご執筆いただいた。山川氏は文化庁のデジタルアーカイブ事業に関わり「メディア芸術データベース(開発版)」構築にも参加された。 はじめに 12月18日まで国立新美術館において開催中の「新海誠展」はご覧になりましたでしょうか? 国立の美術館で初めてアニメーションの展示を本格的に行なったことに驚か
伝統的な美学的カテゴリー(美的範疇)のひとつ。一般的には、巨大な対象、恐ろしい対象、曖昧な対象などを目にした際の人間の感情に結びつけられる。 18世紀以降、この「崇高」という美的範疇はしばしば「美」の対概念と見なされてきた。エドマンド・バークによる『崇高と美の観念の起源』(1757)は、「美」を喚起する属性として対象の小ささ、柔和さ、明瞭さなどを挙げる一方、「崇高」を特徴づけるものは対象の巨大さ、恐ろしさ、曖昧さなどであるとした。バークの議論に影響を受けたカントもまた、『判断力批判』(1790)において「崇高」を「美」と対照的かつその付随的なものとみなしている。バークやカント、ひいてはそのはるか遠い起源に当たる偽ロンギノスの崇高論は、20世紀後半に哲学や批評理論の分野でふたたび脚光を浴びることになり、美学や美術批評の周辺でも大いに流行した。その代表例として、ロバート・ローゼンブラムの「抽象
2017年は重要な芸術論の邦訳や、多彩なアーティストブックが相次いで出版され、さまざまなかたちで、アートについて「読む」経験に触れる機会の多い年となりました。しかし、そもそも「読む」とはどういった行為なのでしょうか。私たちは普段、本やウェブサイトに載っている文字だけでなく、絵画や身体の動作、ひょっとしたら路傍の石ころから、なにかを「読んでいる」と言えるかもしれません。そこで、2017年にartscapeで取り上げたアーティストの方に、「2017年に印象に残った読みモノ」について質問しました。「読む」経験とは、私たちが思っている以上に豊かな行為なのかもしれません。 執筆者 青野文昭(美術家) 岩崎貴宏(美術家) 志賀理江子(写真家) 砂連尾理(振付家、ダンサー) 野口里佳(写真家) 藤野高志(建築家) 青野文昭(美術家) タンス 《水源をめぐるある集落の物語:東京─吉祥寺・井の頭AD2017
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