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ブックレビュー
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文鳥という小鳥をご存じだろうか。 クルっとしたつぶらな瞳に朱を刷(は)いたような赤いくちばし、華奢なピンク色の足。雛のうちからかわいがって育てると、やがて手に乗って遊ぶようになる。気品があって、ちょっとツンデレ。小首をかしげてじっと見つめられるともう胸キュンである。今市子(いま いちこ)という漫画家が描いた『文鳥さまと私』というコミックエッセイがあるが、文鳥の生態や飼い主のハマりっぷりが半端なく、とてもおもしろい。
梅がすずなりになっている木を見かけると早く収穫しないと〜と思ってしまいますし、スーパーの売り場で出会うたびにハッとした気持ちになります。 あの甘い香り、熟した実の美しさ。酸っぱい! と口をすぼめる梅干しがまさかこんな可憐な果実だったなんて。 初めて梅仕事をする方は皆さん驚かれます。
雨の季節になりました。 雨の日の必需品といえば、雨傘。梅雨が明けて夏が到来しても、突然のゲリラ豪雨があったりするので、外出時に傘を持ち歩く日が多くなりそうですね。最近は、女子用の晴雨兼用のおしゃれな傘とか、ビジネスマン向けの持ち歩きしやすいコンパクトな傘も発売されていますし、コンビニ等に行けば、ビニール傘も売っているので、急な雨でも大丈夫!? 一方で、「傘を持ち歩くのがめんどう……。」「傘を持ってくるのを忘れだけれど、ビニール傘を買うのも……。」という声もあるためか、傘のレンタルサービスやシェアリングサービスが増えています。
2020(令和2)年9月、北海道石狩市に1人の旧陸軍中将を称える記念館が開館。彼の名前は、樋口季一郎(ひぐちきいちろう)。1938(昭和13)年、多数のユダヤ人難民を救出しました。ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名ですが、樋口はその2年前に救出を行っています。 また1945(昭和20)年、終戦後に関わらず千島列島の占守(しゅむしゅ)島に侵攻したソ連軍と戦い、北海道を守りました。 今回はそんな彼の生涯を紹介します。 樋口季一郎記念館長に伺う、設立への思い 樋口季一郎記念館は、北海道石狩市内にある「古民家の宿Solii」(古民家の一棟貸しを行う宿泊施設)内の、蔵を再生して開館。館長の江崎幹夫さんに、記念館を立ち上げようと思ったきっかけを伺いました。 「樋口季一郎のユダヤ人難民と北海道の分断をソ連から救った功績は、日本ではあまり知られていません。札幌市の『つき
「もしドラえもんのタイムマシンがあったら、どの時代に行ってみたいですか?」 文明開化の象徴である明治時代?それとも、幕府下の鎖国政策によりある程度の平和が保たれていたとされる江戸時代?豊臣秀吉が天下をとった安土桃山時代も何となく良さそう……。 それから、空には車が飛び交い、機械翻訳が完全に“ほんやくコンニャク”化し、世界中のあらゆる人々との会話が可能となっているであろう、今よりもずっと技術的に進んだ22世紀の未来もまた選択肢のひとつとしてはアリだろう。 選ぶ道はきっと人それぞれだが、学生時代に英語で苦労した人、もしくは現在進行形で苦労している人であれば、この記事を読み終えた後、きっと江戸時代と答えるかもしれない。 幕末に英語研究が本格化し、英語学習ブームに まず、日本における英語研究の歴史は、江戸幕府が創設されて間もない慶長5(1600)年に遡る。ちょうどその頃、後に徳川幕府の外交顧問とし
はじめに 大久保利通の人物評は、毀誉褒貶の両極端を見ることが多いです。国立国会図書館ウェブサイトの『中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典』のなかの人物編「大久保利通」のパートは、感情を排し、理性的に評価した人物像を描いていて非常に優れた人物紹介です。 簡潔にして要を得た、コンパクトな人物紹介のお手本みたいな記事で、ワタクシごとき、これを超える記事は書けそうにありません。みっともないと思わないではないですが、大久保利通の人物像のあらましについてはスルーしちゃいます。 ドラマや小説では憎まれ役として登場することが多く、冷徹とか非情とか、そんなイメージを持つ人が多いけれども、この記事では、利通の意外な側面を御披露しましょう。 明治天皇を理想の君主に! 剛直な外祖父・中山忠能に養育された明治天皇は、元服前から質実剛健な気風を備えたお人柄であったようです。安定した時代の天皇なら、政治的課題とは関
はじめに 一般に流布されている通説と現実との乖離が大きい幕末維新史のなかでも、戊辰戦争の発端に関することは、最も誤解が多いと思います。 戊辰戦争の「戊辰」とは、慶応4年=明治元年の干支で、この年の正月早々に大坂から北上した旧幕府軍と、京を根拠地とする新政府軍とが激突した、鳥羽伏見の戦いをもって「開戦」とみなしています。 しかし、その年越し前に発生した江戸薩摩藩邸焼き討ち事件も、旧幕府側は正規軍を動員して軍事行動をとっているため、事実上の開戦だと考える研究者もいます。 それはさておき、一般に認知されている通説とは、学術的に確定された定説のことではありません。この記事では、誤解に基づいた通説によらず、学術的に正しいことを書いていきます。 また、鳥羽伏見の戦いをもって戊辰戦争勃発とします。このとき旧幕府軍が宣戦布告に相当する、薩摩藩討伐の趣旨を述べた「討薩ノ表」を携えていたからです。薩摩藩邸焼き
ダムの建設などによって、故郷の村や町が湖の底に沈んでしまった……。現在も各地でそのような話を耳にすることがあります。 しかし、かつて湖の底だったところに、いま多くの人々が生活している――。そんな話はなかなか耳にしたことがないのではないでしょうか。 しかもそれがこの日本に、それも、とある県の中心部ほぼ全域だったとしたら……? そんなミステリーを実際にこの目で確かめてきました。 盆地にカモメが飛ぶ謎 現存する日本最古の和歌集『万葉集』に、このような歌があります。 ※「万葉集って何?」という方は、こちらの記事を読んでみてください。 お嬢さん名前教えてよ~♪奈良時代の和歌集『万葉集』は天皇のナンパから始まるって知ってた!? 大倭(やまと)には 群山(むやらま)あれど、 とりよろふ 天の香具山。 登り立ち 国見をすれば、 国原は 煙立ち立つ。 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ。 ■怜(うま)し国ぞ。あき
大政奉還に至るまで 文久3年の八月十八日政変のクーデターでも、禁門の変でも、そして、幕府と長州の第一次幕長戦争でも、一貫して幕府側に立って参戦してきた薩摩藩が、幕府と距離を置くようになりました。 薩摩藩が幕府を見限ったのは、文久4年=元治元年(1864)に発足した朝廷の諮問機関=参預会議に藩主の父である島津久光を送り込みながら、政見の違いから一橋慶喜と対立したことが発端です。酒席で泥酔した慶喜が、久光と松平春嶽(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)の三人を「天下の大愚物・大奸物」と罵ったため、参預会議は空中分解してしまいました。 参預たちを朝廷から遠ざけた慶喜は、将軍後見職を辞し、あらたに設けられた禁裏御守衛総督に就任、京都守護職の松平容保(会津藩主)、京都所司代の松平定敬(桑名藩主)とともに「一会桑」と呼ばれる勢力を築きます。 一会桑は、それぞれ幕府の出先機関の一部を担う立場でしたが、
普段の生活で、皆さんはどんな話し言葉を使っているだろうか。東京近郊で暮らしている人ならば、おおむね標準語(共通語)を話しているかもしれない。それ以外の地域では、普段の会話は地元の言葉をまじえたもの、必要に応じて標準語で話すという人も多いだろう。 いまやテレビの普及などで津々浦々まで標準語が浸透し、大半の人とコミュニケーションが取れる。しかし標準語は明治中期頃に生まれた、たかだか100年余りの歴史しかない新しい言語である。では、それまで日本に標準語的な存在はまったくなかったのだろうか。 標準語の元となったのは東京の言葉とされるが、さかのぼれば江戸の言葉になるだろう。江戸幕府を開いたのは徳川家康(とくがわいえやす)だが、彼の家臣には三河(現、愛知県東部)武士が多いことを考えると、江戸城内では三河弁がいわば公用語だったのか。もしそうだとすれば、江戸の言葉のルーツは、三河の言葉ということになるのだ
「男色(なんしょく/だんしょく)」という言葉を聞いたことがありますか? 日本国語大辞典によると「男性の同性愛」とあります。最近では、LGBTの権利について議論され、性的マイノリティーの問題として取り上げられることも多くなりました。こうみると、最近出てきた概念のように思われますが、実は「男色」は開国前の日本では普通に行われてきたことであり、「マイノリティー」でもなんでもなかったのです! 男色の発展と衰退 日本において「男色」は古代から存在していました。鎌倉時代以前の男色の記録は特権階級の方々のものばかりですが室町時代以降は庶民のものも多くなっています。とはいっても、庶民の記録がないのは、あまりに自然のことであったからと考えられており、庶民の間で男色がタブー視されていたわけではありません。以上のことを踏まえると、当時の日本人にとって「男色」が、どれだけ当たり前のものであったか容易(たやす)く想
現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、徳川慶喜の側近として登場する、平岡円四郎(ひらおかえんしろう)。渋沢栄一を見出したキーパーソンとして、俳優の堤真一さんが演じています。今回は、平岡円四郎がどのような人物だったのか、また平岡円四郎が暗殺されたことで「なにが起きなかったか」を解説します。 ※アイキャッチ画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション 将軍・慶喜を支えた男、平岡円四郎 一橋慶喜を支えた両腕は、平岡円四郎と原市之進の二人です。 主君の慶喜は水戸斉昭の七男で、養子として徳川将軍家の親族に当たる一橋家を嗣ぎました。一橋家には幾つもの離ればなれの小さな領地があてがわれ、まとまった広さの領地はなく、居城もなく、屋敷が江戸城内にあったことも御三家とは異なっていました。いわばペーパーカンパニーなので、地縁血縁で強く結びついた家臣団もいません。幕臣として仕えていた旗本たちが一代かぎりの
吉村“ポップ”秀雄は、世界二輪車史を語る上で欠かせない重要人物である。 排気効率に優れた集合マフラーを開発し、世界各地の名だたる二輪車レースをチューニングの技術一本で制覇した。ヨシムラの登場以前の二輪車レースとは、大手メーカーがラボの中で完成させたマシンを思う存分に走らせる「巨大な実験場」だったが、ヨシムラのメカニックチームはレース直前にピットの中でマシンを改造してしまう。 70年代、既にアメリカでは「ヨシムラの改造したマシンは規格外のパワーを帯びる」ということが知れ渡っていた。我々現代人もよく知っている片仮名の「ヨシムラ」というロゴは、「アメリカ人が唯一読める日本語」と言われるほどだった。が、そのロゴは一時期、ヨシムラの知名度だけを狙う詐欺師の手に握られてしまった——。 エンジン家族のアメリカ進出 1969年、NHKは『ある人生』というドキュメンタリーシリーズ番組で吉村一家を取り上げた。
文化人のサロンが発祥だったはずなのに、どうして「不純」な店が増えてしまったのでしょうか? 日本の喫茶店の歴史を紹介しつつ、その経緯を読み解いていきます。 日本最初の喫茶店「可否茶館」は経営不振で4年で閉店 まずは、日本に喫茶店が生まれた頃の話を。 通説として「日本最初の喫茶店」とされているのは、1888(明治21)年に東京・上野に誕生した「可否茶館」です。(読み方は「カヒサカン」「カヒチャカン」「コーヒーサカン」など諸説あり) 「通説として」と書いたのは、可否茶館以前にもコーヒーを提供した店が存在したこと、また設備の内容から喫茶店と呼べるのか? と疑問を持つ研究者もいることからです。(※この記事の論点は「日本最初の喫茶店はどこか」ではないので、これ以上は掘り下げず話を先に進めます) 可否茶館の跡地に立つ記念碑 創業者は、鄭永慶(ていえいけい)氏(日本人)。海外生活が長かった鄭永慶氏は、「知
今、「新版画」がアートファンの間でちょっとしたブームになっていると言われています。 江戸時代以来の浮世絵制作の伝統を受け継ぎながら、大正時代~昭和前期までの約50年程度の間に制作された、非常にニッチな木版画のジャンルなのですが、ここ最近、この「新版画」の系譜に連なる作家たちが次々とブレイクを果たしているのです。 ひょっとしたら、小原古邨(おはらこそん)、吉田博(よしだひろし)、川瀬巴水(かわせはすい)といった名前を耳にしたことがある方もいらっしゃるかも知れません。 もちろんTikTokやClubhouseを真っ先にやっちゃうほど流行に敏感な和樂webですから、当然このあたりの流れは押さえておかねば!ということで、2020年秋頃から新版画系の展覧会はちょくちょくレポートをアップしてきています。 実は、「新版画」というジャンルは、昭和高度成長時代に一旦力尽きてしまった分野です。浮世絵同様、この
何気ない退屈な日常が、実はかけがえのない日々だった。そう気づかせてくれるのは、過去に他所から来た旅人かもしれない。今回の主人公は明治初期のイギリス人の女性旅行家、イザベラ・バード。1878年に東北や北海道、関西などを旅し、1880年に出版された『Unbeaten Tracks in Japan』やその後に出された簡略本は世界的に高く評価され、女性として初めて英国王立地理学協会の特別会員にも選出されている。
TOP ROCK 和樂web Culture 「誰のタネかなんてどうでもいい」縄文時代は性的パートナーも平等に分配してた?縄文人vs弥生人、文化を徹底比較! 縄文時代と弥生時代。どっちも「先史時代」だし、どっちもわからないことだらけだし、なんなら歴史の教科書では、両時代合わせて数ページしか割かれないという雑な扱いを受けています。しかし縄文時代と弥生時代は、日本列島の歴史の中で最も長い時代なのであり、だからこそ「2大、日本文化の素となった時代」なのであります。 そこで今回は、縄文時代と弥生時代の生活を推測し、大胆かつ大雑把に比較してみようと思います。狩猟社会(縄文)が農耕社会(弥生)に変わるということは、食文化にとどまらない非常に大きな社会的変化を伴います。連続した時代であるにもかかわらず、時に信じられないほど違うことが多いですが、きっと縄文さんにも、弥生さんにも共感するのではないかと思いま
「縄文のタイムカプセル」。そんな異名を持つ遺跡があります。しかも、都心から電車で1時間足らずの場所にあるのです。それが「100年に1度の発見」と学者をうならせた、埼玉県北本市の「デーノタメ遺跡」。 デーノタメという言葉から、縄文のタイムカプセルと呼ばれる遺跡の不思議をひもといてみませんか。 埼玉県北本市で発掘された、縄文1500年のタイムカプセル 古代、埼玉にも海があった デーノタメ遺跡について詳しく紹介する前に、イメージしてみてください。縄文時代には温暖化で氷河期の氷が溶けだし、埼玉まで海が広がっていたということを。 北本から大宮、浦和、そして川口あたりまで広がる大宮台地はいわば当時の湾岸エリア。台地には入り組んだ谷が刻まれていて、中小の河川がいくつも流れています。また、湧水も豊富でした。 わたしたちの暮らしに欠かせない水。古代文明が大河のほとりで生まれたように、縄文人も水辺に集落をつく
医療が発達した現代でも病気はなくなりません。病気とハッピーな気分が結びつく人なんて、この世にほとんどいないでしょう。でも、日本には『病草紙』という、病気をポップに描いたエキセントリックな作品があるのです。 まずはその一部をご覧ください。 「眼病の男」 男性が白内障の治療で目に針を刺され、大量に血を吹き出しています。その隣で、女の人がとっても楽しそうに笑っています。これは非常に奇妙な光景です。想像したただけで痛くて怖い。それなのになんで、彼女は笑っているの??しかもギャラリーが集まりすぎです。 平安時代に描かれた『病草紙』は、まだまだわからないことが多い絵巻です。どうしてこんなにポップに描かれたのか、そして一体誰のために何の目的で描かれたのか・・・。その謎と絵巻に込められたメッセージを紐解いていきたいと思います! ※本記事で使用する『病草紙』の画像は全て、色彩が鮮明な土佐光長の写本を「国立国
大正時代から戦後すぐにかけての短い間、「新版画」というブランド名で美術品として復興された浮世絵の作品群があったことをご存知でしょうか? 新版画は、1960年代に有力な絵師や版元がなくなると下火になり、長らく完全に忘れ去られた芸術分野となっていました。 しかし、2010年代になると再ブレイク。 スティーブ・ジョブズがこよなく愛した川瀬巴水、ダイアナ妃が寝室で毎日眺めた吉田博、花鳥画の数々がSNSで「かわいい」と評判になった小原古邨など、今や次々と新版画を手掛けた絵師が注目されるようになってきているのです。 そうなると、次は誰が復権するのか?と考えてしまうのがアートマニアの性というもの。 色々と情報を集めていったところ、2021年初春に「笠松紫浪」という聞き慣れない作家の回顧展が太田記念美術館で開催されることを突き止めました。 あれ?!この作家さん…。そういえば、以前酷暑の中、日本一の凄い版木
宇多天皇(うだてんのう)は、皇族でありながら「姓」を賜り、臣下の立場から天皇となった人物です。宇多天皇自ら政治を行った世は「寛平(かんぴょう)の治」と呼ばれ、理想的な時代と捉えられました。 「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)」「亭子院歌合(ていじいんうたあわせ)」など、和歌を好んだ宇多天皇の時代は文化面でも興隆し、多くの歌人が活躍しました。 ところでそんな宇多天皇が、実は無類の猫好きであったことをご存知でしょうか? この記事では、宇多天皇の猫愛がわかるエピソードを紹介します。 臣下の身分から天皇となった宇多天皇 宇多天皇は、実はもともと天皇になるはずではなかった人物でした。 宇多天皇の二代前の天皇・陽成天皇は幼くして即位しますが、奇行が目立ったこと、宮中での殺人事件への関与が噂されたことなどから、17歳(満年齢では15歳)で譲位に追い込まれました。この譲位は、
きらびやかな衣装を纏った、遊郭の花魁(おいらん)や太夫(たゆう)たち。 決して綺麗ごとだけでは済まされない「苦界(くかい)」の住人ではありましたが、その美貌と高い知性とで特権階級にもてはやされた存在でもありました。 ところで、江戸の吉原や京都の島原とはやや異なるものの、男性版の遊郭もいくつか存在していました。 「陰間茶屋(かげまぢゃや)」の世界をちょっと覗いてみましょう。 陰間茶屋ってなに? 陰間茶屋とは、江戸時代にあった男娼を斡旋する茶屋(宿)のことです。「陰間屋」「子供茶屋 ※理由は次項」ともいいます。 どんな人が働いていた? 陰間茶屋で働いていたのは、主に歌舞伎役者修業中で舞台に立つ前の、10~17歳くらいの少年でした。このため、「子供茶屋」の別称でも呼ばれていたのです。現代だと犯罪になってしまいますが、こんな時代も過去にはあったのですね。 近世初期には、すでに歌舞伎役者として活躍し
『源氏物語(げんじものがたり)』は、約千年前紫式部(むらさきしきぶ)によって書かれた世界最古の恋愛小説です。時代を超えて読み継がれてきた大河ドラマである源氏物語は登場人物が多く、今を生きる私たちにとってハードルが高いのも事実。そこで、現代語訳や原文に挑戦する前に頭に入れておきたい全54帖のあらすじをまとめました。ばくっとあらすじを覚えておくと、源氏物語の世界に没入しやすくなること間違いなし! 源氏物語は世界最古の恋愛小説! ◆「源氏物語」とはどんな作品?登場人物一覧 明かされる光源氏誕生の秘密 一帖 桐壺(きりつぼ) いつの時代のことだったか、帝の寵愛を一身に受けるさして身分の高くない更衣(桐壺更衣)がいた。父である大納言もすでに亡くし、格別の後見もないため、帝の一のきさきである弘徽殿女御をはじめとする後宮の女たちから嫉妬されながら、更衣は玉のような皇子を出産した。帝はますます更衣を愛した
80年代は、全国の若者がこぞってバイクに跨っていた時代だった。 この時代、日本の輸出産業はもはや世界を席巻していた。1985年公開の映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』には、様々な日本製品が登場する。ビデオカメラも腕時計もストップウォッチも主人公が欲しがっているクルマも、ありとあらゆるところにメイド・イン・ジャパンがあった。 日本人は急流のような忙しさと引き換えに、十分な可処分所得を手にするようになった。それは20歳を迎えていない若者にも伝搬する。彼らが真っ先に買い求めたのは、二輪車だった。 より速く、より力強く。80年代の日本製自動二輪車は「戦闘力」という言葉と共に発展した。 400cc全盛の時代 さて、今回筆者が記事を書くにあたり仕入れた2冊の雑誌がある。 1冊は三栄書房(現・三栄)の『モト・ライダー』1984年7月号、もう1冊はモーターマガジン社の『オートバイ』1985年11月号で
日露戦争で日本軍を率いたことで知られる大山巌は、歴史の教科書に載ったり載らなかったりで、いまひとつ著名とも言い難いところじゃないかと思います。学校で教わる歴史の授業は、近代まで行かずに時間切れになったり、近代を教わるころには受験シーズンの到来で学校の授業そっちのけで入試対策をしていたりしますから、明治以降の歴史を学校できちんと教わっていない人が多いようですね。私もそうでした。そのせいか、明治以後に活躍した大山巌のことも、小説やドラマをきっかけに知った人が大半のようです。いってしまえば小説やドラマは「つくり話」なので、本当の人物像は違うのになぁ、と、思わせられることも多々あります。 かく申すワタクシは、大山巌の曾孫でありまして、また、30年近く歴史雑誌に記事を書いてメシを喰っておりまして、キチンと調べて歴史を書くことをモットーとしております。webメディアで仕事をした経験はございませんが、縁
「FUNK FUJIYAMA」という米米CLUBの曲をご存知でしょうか。 今からちょうど約30年前となる1989年に、彼らの9枚目のシングルとして発表された曲なのですが、おおよそバブル期のニューミュージックでは聞き慣れない曲調に、SUSHI、GEISHA、FUJIYAMA、SAMURAI・・・等々、日本文化に対するステレオタイプ的なキーワードをぶちこみまくったお気楽なパーティーチューンです。 中学生になって歌番組を見始めたばかりだった当時のウブな少年にとって、この一種異様なテンションの歌詞は鮮烈でした。未だにカラオケでしっかり歌えるほどです。(年なのでもう歌わないけど)。 あれから30年後、実は2020年になった今も、外国人が日本文化に対して抱いているイメージは、「SUSHI」であり「GEISHA」「FUJIYAMA」なのですよね。 こうした、一種ステレオタイプ的ともいえる日本文化に対する
子供の頃、「今日の夜ご飯なに!?」と質問した時に、「鍋よ」と母から聞くと、がっかりしたものです。 今考えると申し訳ないのですが、お魚や鶏肉、白菜、春菊、白葱の「寄せ鍋」があまり好きではありませんでした。白菜と春菊が苦手だったため、鍋のお出汁にもその野菜の香りがまわっているのが面白くなかったのです。鍋の日はひとつ楽しみが消えた気分でした。 そこに風穴を開けたのが今回ご紹介する「風邪退治鍋」。 おそらく母がTVか何かで見かけて作り始めたのですが、今までの寄せ鍋と違い、こってりした風味、パンチがあって、何より美味しい! そして食べ終わった後の汗のかきようったら爽快以外何ものでもありません。風邪も確かに吹き飛びそう、と大笑いしてしまいます。このお鍋のおかげで苦手だった白菜も大好物になりました。 「風邪退治鍋」 材料 豚バラ肉 薄切り 600g 白菜 1/8本 ニラ 1わ 白葱 1本 にんにく 6か
「島流し」と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか? おそらく、謀反のような重罪を犯したものの、死刑は免れるかわりに小島に送られ、そこで生涯を全うする―こういった印象を持つ人が多いでしょう。 そこでの生活は、派手ではないものの、つつましやかに暮らすことは許され、牧歌的ともいえる日々であったと想像するかもしれませんね。 しかし、その実情は、多くの罪人にとって「死刑のほうがまだマシ」といえそうなほど過酷な世界であったのです。 この記事では、流刑者が多かった江戸時代を中心に、島流しの伝説を紹介したいと思います。 日本初の流刑者は皇女だった 日本の流刑の歴史は古く、正史では日本書紀に出てきます。第19代天皇の允恭(いんぎょう)帝の治世というから、西暦では5世紀の話です。 允恭帝には9人の皇子・皇女がいましたが、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相
当たり前ですが、お店で性的なサービスを受けた場合は、正当な対価を支払わなければなりません。とは言っても、江戸時代の遊里・吉原には、お金を持たずに遊びにくる男が後を絶ちませんでした。そんな男は、ひどい見せしめにあったのだとか。恐ろしい制裁「桶伏せ」についてご紹介します。 路上で晒しものにされる「桶伏せ」 お金がないのに食べたり飲んだりした上、遊女から性的サービスを受けた男は「桶伏せ」という制裁を受けました。その方法は、窓を開けた大きな桶の中に男を閉じ込め、路上で晒しものにするというもの。食事だけはもらえたそうですが、防寒具などはなく、糞尿もその場でさせられます。 『玉屋地新兵衛桶伏の段火夜苦の門並』国立国会図書館デジタルコレクションより たった数時間でも耐えられない恐ろしい制裁ですが、家族がお金をもってくるまでは、5~6日かかろうとも外に出さなかったのだとか……。 お金を届けに来た家族が「桶
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