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社会とファミコンに関するwata300のブックマーク (2)

  • 日本の行政はいまだに“ゲーム=ファミコン”だと思ってるらしい

    ファミコンブーム真っ只中の80年代後半の日において、ファミコンはまさに家庭用テレビゲーム機の代名詞だった。 ◆当時のゲーム屋事情◆ 当時のゲーム屋は「ファミコン」という看板さえ掲げておけば商売ができたのだ。それはスーパーファミコンが発売されても同じだった。ゲーム屋は相変わらず「ファミコン」の看板を掲げて何わぬ顔。スーパーファミコンだってファミコンじゃん。なにがいけなの。と言った調子だ。 さらに年月は経ち、セガサターン、プレイステーションが発売された。いわゆる次世代ゲーム機の時代に突入したのだ。しかしゲーム屋は「ファミコン」の看板をおろさない。べつに誰も困ってねえじゃん。と言った調子だった・・・・・・ ちょうどその時代(1994年頃からファミコン再評価時代に移るまでの数年間)はファミコン氷河期だった。誰もファミコンなんか見向きもしてなかったから、よくディスカウントショップのワゴンに11

    日本の行政はいまだに“ゲーム=ファミコン”だと思ってるらしい
    wata300
    wata300 2011/06/17
    《ファミコンデッキて(笑》《ファミコンデッキ(ハードディスク内蔵のもの) 》www
  • レトロゲーム万里を往く その99 ファミコン少年がゲームに夢見ていたこと: 不倒城

    島国大和さんの記事を読んで、特に下の文章が心に残った。振り返りたい。 俺たちは、FCのしょっぺー画面のゲームを見ながら何を夢想していたか。 ゲームがどうなる事を希望していたか。それは達成されたのか。で、色々考えた。 先に断っておくが、私が考えたことは飽くまで上の文章のみに反応したことなので、島国大和さんが記事全体で言いたかった内容への反応にはなっていないと思う。全然別のテーマのお話ととって頂けると幸いである。 多分なのだが、かつてファミコンで遊んだ人達は、「将来のゲーム」に色んなことを夢見たと思う。そして、そういう色んな夢が叶えられてゲームはここまで来た、という実感は、私の中には確かにある。 夢が現実になって、色々なゲームが生まれて。で、現実になったからには現実として受け取る必要があって、そういうところで歪みが出てしまったものも多分あるのだろう。 以下、ちょっと雑然と書く。 ちょっと前、昔

    wata300
    wata300 2011/02/03
    《多分大事なことは、「次はどんな夢を見るか」ということなんだろうなあ、と思う。世界は多分、夢を見た人が、その夢に向かって転がしていく。》
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