Published 2024/02/03 18:37 (JST) Updated 2024/02/03 19:51 (JST) 自民党の杉田水脈衆院議員は3日付のX投稿で、過去の教訓を伝える各地の朝鮮人労働者追悼碑を取り上げて「うそのモニュメントは日本に必要ありません」と書き込んだ。県立公園の追悼碑撤去に踏み切った群馬県の動きに呼応している。歴史修正主義やレイシズムをあおる言説で、強い批判を招きそうだ。 投稿で杉田氏は、群馬県が追悼碑撤去工事を終えたと伝える新聞記事を引用し「本当に良かったです」と強調。「日本国内にある慰安婦や朝鮮半島出身労働者に関する碑や像もこれに続いてほしい」と訴えた。所在地の自治体や住民は群馬県を見習い、撤去に動くべきだとの趣旨。 群馬県の碑撤去を巡っては、犠牲者と朝鮮民族への冒涜であり、負の歴史を否定する恥ずべき行為だとして、反対運動が起きていた。県は現場の公園を閉
Published 2023/08/30 12:59 (JST) Updated 2023/08/30 13:11 (JST) 松野博一官房長官は30日の記者会見で、関東大震災当時の朝鮮人虐殺について「政府内において事実関係を把握する記録は見当たらない」と述べ、コメントを避けた。反省や教訓の言葉もなかった。関東大震災は9月1日に発生100年となる。 虐殺を巡っては、事実そのものを疑問視したり否定したりする言説が広がっており、歴史の風化や歪曲が懸念される。松野氏は、事実関係を政府として調査する考えはあるかとの問いに、否定的な認識を示した。 在日コリアンを含むマイノリティーへのヘイトスピーチを解消できない現状について聞かれ、具体的な回答には踏み込まなかった。
徳川家康の子孫にあたる徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんがことしいっぱいで退き、長男の家広さんが19代当主として家督を継ぐことが関係者への取材でわかりました。 徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんは昭和38年、先代の死去に伴い家督を継ぎ、平成15年には徳川家に伝わる資料や文化財を保存・展示するため徳川記念財団を設立するなど60年近くにわたり当主を務めてきました。 関係者によりますと恒孝さんは82歳と高齢であることなどを理由にことしいっぱいで当主を退くことを決め、長男の家広さんが19代当主として正式に家督を継ぐことになったということです。 徳川家広さんは東京都出身の57歳。 アメリカの大学を卒業後、政治や経済、歴史の評論家などとして活動し、3年前の参議院選挙静岡選挙区に立憲民主党から立候補しました。 現在は徳川記念財団の理事長を務め、来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の「浜松大河ドラマ館」の名
ベトナム中南部ビンディン省タイソン県タイヴィン村に建てられた「ビンアン虐殺事件」(1966年)追悼碑のモザイク画。ベトナム戦当時の韓国軍の虐殺場面を描写している=ハンギョレの資料写真、ク・スジョン氏提供//ハンギョレ新聞社 私と電子メールをやりとりしてきた韓ベ平和財団のク・スジョン理事が、今年初めの最初の対面で、3月11日に50周年をむかえるベトナム広南省ハミ村での慰霊祭に一緒に行こうと提案した。韓国軍によるベトナム民間人虐殺被害者の慰霊祭に大韓民国の国会議員が参拝することは初めてだと言った。 実際、ダナン近郊のフォンニィ・フォンニャットの村に到着し慰霊碑の前に立つと喉が詰まった。碑文に一連番号とともに死亡者の出生年度が彫られていた。1968,1967,1967,1967,1966,1965,1964,1964,1963,1963,1963,1963,1962,1961,1961,1961
頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。 一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。 10万人が死亡しても「空襲を恐れるな」 1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。 この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや
東京都の小池百合子知事が、都立横網町(よこあみちょう)公園(墨田区)で九月一日に営まれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったことが分かった。例年、市民団体で構成する主催者の実行委員会が要請し、歴代知事は応じてきた。小池氏も昨年は送付していたが方針転換した。団体側は「震災時に朝鮮人が虐殺された史実の否定にもつながりかねない判断」と、近く抗議する。 (辻渕智之、榊原智康) 追悼文を断った理由について、都建設局公園緑地部は本紙の取材に、都慰霊協会主催の大法要が関東大震災の九月一日と東京大空襲の三月十日に開催されることを挙げ、「知事はそこに出席し、亡くなった人すべてに哀悼の意を表しているため」と説明。「今後、他の団体から要請があっても出さない」としている。
韓国・ソウルの路線バスの一部が慰安婦問題を象徴する少女像を座席に設置して14日から運行を始め、ソウル市長も乗車して取り組みを評価しましたが、市民の間からは「行き過ぎたパフォーマンスだ」という批判も出ています。 バス会社では、この少女像を乗せたバスを来月30日まで走らせることにしていて、初日の14日はソウル市のパク・ウォンスン(朴元淳)市長も乗車しました。このあとパク市長は、「バスに乗って少女像を見れば、慰安婦として犠牲になった女性たちを追慕する機会になる」と述べて取り組みを評価し、慰安婦問題をめぐる日韓合意については、「時間がかかっても韓国の国民情緒から納得できる新たな合意が必要だと思う」との考えを示しました。 一方、この路線バスは日本人観光客も多く訪れるエリアを走るだけに、日韓関係に悪影響を与える懸念が指摘されています。ソウル市民の間では、バス会社を評価する声が目立つ一方、「公共交通機関
内閣府は19日、ホームページ(HP)で閲覧できなくなっている中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書について、4月中にも再び閲覧できるようにすると記者会見を開いて発表した。閲覧できない理由を「HPの刷新に伴うもの」とし、意図的な削除ではないと説明している。 内閣府によると閲覧できないのは、過去の24災害の教訓を将来に伝えるため、専門調査会が2003~10年に作った報告書のすべて。うち、関東大震災の報告書の第2編では「殺傷事件の発生」として朝鮮人虐殺を扱っている。 内閣府は現在、HPの刷新作業中で、報告書が見られなくなったのは「技術的な問題」と説明。刷新が終われば再び閲覧できるようにするとしている。 この問題について朝日新聞は19日付朝刊に「『朝鮮人虐殺』に苦情、削除」などとして掲載した。18日に内閣府の複数の担当者に電話で取材。担当者は朝鮮人虐殺の記述に苦情があることを認
江戸時代以降の災害の教訓を将来に伝えるため、政府の中央防災会議の専門調査会がまとめた報告書を、内閣府がホームページから削除していることがわかった。一部に関東大震災時の「朝鮮人虐殺」についての記述が含まれており、担当者は「内容的に批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をした」と説明している。 削除されているのは、同会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」(2003~10年度)が作った報告書。過去の大災害について、被害や政府の対応、国民生活への影響などを整理し、教訓をまとめている。 09年に作成した関東大震災についての報告書の第2編では、「殺傷事件の発生」(計15ページ)として朝鮮人虐殺を扱っている。内閣府によると、この内容について「なぜこんな内容が載っているんだ」との苦情が多く、4月以降のホームページの改修に合わせ、安政の大地震や雲仙普賢岳噴火などを含め、すべての報告書の掲載を
日本会議北海道本部「北海道博物館問題対策委員会」(※以下、対策委員会)は、本年5月27日、北海道知事に対し、北海道博物館の展示に関する公開質問状を提出しました。 対する道は、6月27日付で回答案を提示。当会は、回答の具体性を確保する目的から質問趣旨・意見・要望等等を内容とする意見書を提出、かくして8月22日、北海道知事より正式回答がなされました。ここに、皆様の閲覧に供するため、公開質問状・正式回答書の全文を掲載します。ご参照いただき、ご意見などお聞かせいただければ幸甚に存じます。なお、以下に公開質問に至った経緯や博物館に対するあり方について、当会の基本姿勢を明らかにしておきたいと思います。 本ホームページ最下段〝おわりに〟の、「質問と回答」ではその内容を見やすくまとめてあります。 また、「公開質問状」と「正式回答書」では、全文を掲載してます。 この度の公開質問は、ある観覧者のひと言が理事会
赤池誠章・元文部科学政務官(自民党参院議員) (天皇陛下の退位について)陛下のお言葉の中には、国政の権能を有しないということで、一言もそのような(退位という)お言葉は入っていない。世論調査や報道を経て、それが一つの既定路線、結論みたいな形の中で進んでいる。残念ながら我が自民党、日ごろは同志と言われる保守系の中にもいろいろな意見があるという状況になってきた。マスコミのミスリードから、国民、そして私どもが分断されているんじゃないかと大変危惧している。 明治維新の時に神武創業に戻る、そして神武天皇の創業の時にはまさに「八紘(はっこう)」、天下を一つの家と成すということで、大きな大家族主義として、歴代125代の皇室とともに、私たち国民は、君民ともに治める国柄として今日まできた。そういうことを考えた時、象徴的行為が仮にできなかったから、じゃあその国柄の中に生きる我々としては、陛下に対してご譲位を「分
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