機械の母、工作機械を創る -2 創業するやいなやに、戦争社会に振り回された旋盤専業メーカー「東洋機械株式会社」は、昭和20年(1945)、突如、にわかの敗戦によって、虚無の世界に投げ出された。 国内の産業界は壊滅していた。 衣食無く、礼節さらに無く、乏しい物資を争ってヤミ市だけが賑わい、4キロ南の広島市街は一面の焼け野原だった。 遠近の山々は、木材が皆伐されて丸坊主になり、台風の大雨を持ちこたえられなくて川が溢れ、工場は2度も冠水した。資材無く、売れ先無く、工場の仕事は無くなって、大勢の人が解雇された。 苦肉の策として、食糧機械、農業機械、木工機械、などを、次々にこしらえ、売り歩いた。専売局から受注した煙草細刻機など一式の装置が輸出品にも成長して、事業再建の糧になったという。 大戦末期に三菱重工に併合され、戦後は財閥解体の占領政策などで、社名は何度か変わったが、主題に遠いから略す。現