casemaestro89のブックマーク (2,104)

  • 南海の激レア電車、白線急行を見に行く

    現存する日最古の私鉄、南海電鉄。 和歌山方面や関西空港へのアクセスラインでもある線と、高野山へのアクセスをほぼ独占している高野線を二柱とした大手私鉄です。 昭和の時代には野球チームを所有していたりもしていましたが、現在は大手私鉄の割には地味な存在と思います。 が、経営は手堅い。コロナで主要鉄道会社が軒並み経営赤字の中、なんとガリバーJRを含めた大手鉄道会社唯一の経営黒字を達成しています。

  • 福原遊郭と外国人遊客 |おいらんだ国酔夢譚|

    遊里史の調査のため、統計書を読む機会が多数あります。 統計書、それはただ読むだけでは何の面白みもない無機質な数字の海。目的なしで読むと、こんな資料の何がどう面白いのか全くわけわかめな書物です。 が、ある目的を持ちながら読むとあら不思議。その数字の行間、いや「数間」か、を読み取ると、他の人には見えなかった何かが見えてくる「魔法の書」でもあります。 戦前の統計書には、鉄道などの交通機関の数字の他に、遊郭の数字も記載されています。基項目はどの道府県も同じなのですが、所々に土地柄を思わせる項目があったりします。兵庫県の統計書は、さすがは国際都市神戸を抱える土地柄か、外国人に関する項目が多いのが特徴です。 兵庫県統計書の大きな個性は、遊郭の項目に外国人が記載されていること。 他の統計書にはない大きな情報でもあります。 今回は、そこに焦点を当ててみようかと思います。 福原遊郭略史まずは、福原遊郭の歴

  • 天王寺駅大阪環状線ホーム脇に残る謎の建造物【阪和線歴史紀行】

    このブログはそもそもはてなブログでアップしたものですが、掲載当時は大変な反響を呼び、これを通して拙ブログを知った方も多いと思います。 現在でも、書き主にとっても書き甲斐があった記事のトップ3に入っています。しかし、そういう記事に限って長期的なアクセス数にはあまり貢献しておらず、作者の熱意と実PVが一致しないというのが頭痛の種です。これもブログあるあるなのか。 前後編でたいがいのことは書いたつもりだったのですが、実は書き残した残りかす的な番外編もいくつか存在していたりします。 解決できなかったペンディング事項も存在するのですが、一つ自己解決した案件があります。今回は、軽くそれを紹介したいと思います。 天王寺駅に残る謎の階段天王寺駅11番線ホーム。 今年で開業60周年を迎える大阪環状線の、内回りのオレンジの電車が数分おきにひっきりなしに発着する、天王寺駅一忙しいホームです。 そんなホームの、寺

  • 大阪市立大学秘史 その2-商科大学から市民大学へ

    大阪に大学の数は星の数ほど…でもないですが、それでも数えるのも面倒くさいほどの数が存在しています。 その中でも、市内南部の杉町に君臨する大阪市立大学の存在感は、やはり大きい。来年、大阪府立大学と合併し『大阪公立大学』と名を改め、数年後には理学部と経済系学部以外は杉町キャンパスからも離る予定になっています。 今年は大阪市立大学が大阪市立大学である最後の年でもあります。そういう理由ではありませんが、大阪市立大学はどんな経緯で現在の形になったのか、たどっていきましょう。 大阪市立大学の歴史商業の都大阪には、江戸時代から町人のための学校が数多く開かれていました。有名どころは福沢諭吉などが在籍していた『適塾』ですが、現在なら理系全振りの教養学部か、医学部の教養課程(って今でもあるのかな?)のようなところでした。 また、裕福な商人が金を出し合い、授業料は無料という塾も多数ありました。 そこで学ぶも

  • 宇都宮亀廓&中河原の赤線|おいらんだ国酔夢譚|

    宇都宮と聞いてまず思いつくのが。 …おっと間違えた。 やっぱ餃子でしょ。 宇都宮がいつから「餃子の街」になったかは不明ですが、駅を降りるとそこは餃子屋だったほどの餃子ラッシュは、餃子で町おこしをして成功した矜持を感じさせます。こんな街、餃子の中国にもないぞ。 宇都宮は、日光街道と奥州街道の要衝、そして日光東照宮のお膝元として江戸時代以降重要視され、それだけに徳川家康の腹心多正信の息子、正純が城主として治めることになりました。歴史、特に江戸時代が好きな人は、宇都宮とくれば餃子ではなく「釣天井事件」を想起する人もいるでしょう。 これにより多正純は改易となり、その後は譜代大名の持ち回りで治める町になりましたが、彼が築いたまちづくりが現在の宇都宮市の基礎になっています。 今回は、そんな自他共に認める餃子之国、宇都宮にあった遊郭のお話。 宇都宮の遊郭史近世宇都宮の歴史は、時間がなく調べること

  • 大阪市立大学秘史-キャンプ・サカイと杉本町駅の謎の線路【阪和線歴史紀行】

    町駅から伸びる謎の線路まずは、ある航空写真を見てみましょう。 昭和23年(1948)、まだ市大が旧制大阪商科大学だった頃の航空写真です。70年前の写真なので、大学の周囲にほとんど何もない以外は、大学の輪郭を含めて今と変わっていません。 しかし、どこかしらおかしいところもあります。 杉町駅の横に、線路が見えているのがわかるでしょうか。 ある人はこう思うでしょう。 私が小さい頃は、ここから貨物列車が毎日走っていました。昭和50年代後半だったと思いますが、大和川を隔てた浅香という駅に何故か1日1の貨物列車の通過時間が書いていて、駅近くにあった祖母の家に行った時は、その貨物列車を見に行っていました。うろ覚えですが、午後4時前後だった記憶があります。 今はその阪和貨物線も廃止され、レールも剥がされ写真のような長細い荒れ地と化していますが、これではないかと。確かに路線的には似ています。が、阪和

  • 池田新地(大阪府池田市)|遊郭・赤線跡をゆく|

    (出典:『大阪府統計書』) 数字だけの規模としては小さい方で、市内にあった同じ花街の南陽新地や曾根崎新地はもちろん、泉州の岸和田花街をも下回ります。 その中でも、昭和11年(1936)だけ、遊客数と売上がなぜか爆上がりしているのですが、理由はわかりません。 そんな池田花街ですが、戦争による贅沢や享楽が締め付けられ、ついに昭和18年(1943)には法律でおおっぴらに営業が不可能となりました。 それと入れ違いなのか、大阪府の資料には陰で売春行為を行う小料理屋があったと書かれています。それと花街の関係はわかりません。が、この売春行為を行う小料理屋が、今回の主役「池田新地」の母体と推定できます。 赤線の成立、そして廃廓へそして終戦直前から戦後にかけ、戦争で焼け出された大阪他の遊郭の業者が若干数池田に移ったようで、戦争中から存在した在来の小料理屋と共に「池田新地」を形成しました。 そしてそれがのちの

  • 龍神駅-堺の玄関駅の栄枯盛衰【南海電鉄歴史紀行】

    大阪市と南部の河内・泉州を結ぶ南海電鉄。南海は大きく分けて線と高野線に分かれますが、二つともある街を通ります。それが堺。 線は堺、そして高野線は堺東駅が堺市の中心駅ですが、地元に疎い人は名前から線の堺の方が栄えていると思いがちです。 が、実際に栄えているのは堺東の方。市役所も堺東駅前にあり、百貨店である高島屋も堺東。線の堺の方は、特急が停まるなど中心駅としての体裁を整えているものの、どこか場末の…という感が否めません。あくまで堺東と比べたらですけどね。 そんな線側には、かつて栄光の時代がありました。海浜リゾートを抱え、特に夏には黒山の人だかりで身動きができなかった時代が。 しかし、それは今の堺駅ではありません。「もう一つの堺駅」があったのです。それが、今回の主役である龍神駅でした。 龍神駅-その長くも短き生涯 堺市の臨海沿いに位置する大浜公園は、現在は海が埋め立てられ「やや陸地」

  • 【前編】松島新地(大阪市西区)|おいらんだ国酔夢譚|

    大阪の遊郭と聞いて、真っ先に思い浮かべる場所が二つあります。それが松島と飛田。 大阪、いや近代日に君臨した遊郭界の木星と土星的存在であるこの二廓は、その巨大な重力によって大阪歴史にも深く影響した巨大惑星であります。 貸座敷業、いわゆる遊女屋というのは、周囲から賤業と冷たい目で見られたため当事者にとっては黒歴史でもあります。全員ではないですが、過去の歴史を極力隠そうとします。私もカメラを向けたどころか、元妓楼を凝視しただけで怒鳴られた回数は数知れず。 滋賀県の某遊郭のように、遊里としての歴史を閉じる際に歴史の一部である文書を火の中に入れ、遊里であったことを永遠に消し去ろうとした所さえありました。図書館でその記述を見て、臭いものには蓋をするその行為に怒りを覚えたものです。 それとは逆に、遊里であった歴史を当事者の手でまとめ、文字として残そうと「歴史書」を作成したところがありました。それが今

  • やはり巨大企業が「中小企業化」するのには釈然としないものがあります - やね日記

    以前、毎日新聞社が「中小企業化」すると言う話を聞いて、この日記でも記事を書きましたが、今度はJTBですか。 ただ、シャープの時とは異なり、今回はマスメディアが先鞭をつけていますしね。 さすがに批判はし辛いとは思います。 ちなみに、これまでに減資を表明したスカイマーク、毎日新聞社、JTBは、いずれも中小企業基法上は「製造業その他」になるので、資金3億円以下に減資することで「中小企業」になることは可能です。 ※独立行政法人中小企業基盤整備機構のウェブサイトより抜粋 ですが、3億円にとどまらず1億円まで減資を行うと言うことは、「中小法人向け税制の適用」を受けようとしているわけですね。 その主な税制は下記の通りです。 法人税率の優遇に加えて損金算入の範囲が広がるなど、非常に有利な軽減が適用されることがよく分かります。 ※財務省のウェブサイトより抜粋 ただ、いかにコロナ禍で経営が苦しいからと言っ

    やはり巨大企業が「中小企業化」するのには釈然としないものがあります - やね日記
  • 福田遊郭(山形県米沢市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山形県米沢市。山形県南部にあるこの町は、伊達家によって町が形成され、戦国時代に伊達晴宗がここを拠地にしました。晴宗の孫である伊達政宗も米沢で生まれ、ここをホームタウンに戦国の世を動き回りました。 江戸時代に入り上杉景勝がここに転封されて以降、米沢は上杉氏の領地として明治時代まで続きました。特に「成せば成る」の9代目藩主上杉鷹山(治憲)が有名なところです。 そういう意味では、戦国時代ファンにとっては聖地に等しい胸熱の街ではないでしょうか。 今回は、そんな米沢にあった遊郭の話です。 米沢の遊里史上杉景勝が新米沢藩主として転封されてきた頃には、すでに「遊女屋」が存在しており、「揚屋三軒、遊女十三人」と記録にあります1。また、温泉地である赤湯にも、「湯女」と呼ばれた今風に言えばソープ嬢のような私娼がいたそうです。やはり温泉地と遊女は切っても切れないようです。 そして寛政7年(1795)11月、藩

  • キャラバシ園-ユートピアに終わったユートピア

    伽羅橋をつくった男、山川逸郎かれは江戸時代より高石近辺の庄屋を勤めていた山川家の御曹司で、明治時代に初代高石村長を務めたこともある山川和正(1834~1918)を父に持ち、若いころアメリカに留学していた経験もありました。当時としてはては非常なるインテリであり、大阪弁でいうガチの”ボンボン”でもありました。 逸郎は旧制堺中学1から関西学院へ、その後工業学校の機械科を卒業し、単身米国へと留学します。 そこで、当時の最新技術であった自動車に関心を示しました。工業科を卒業した人間にとって、自動車に興味が沸かないわけがない。 しかし、大正8年(1919)に帰国した逸郎は、何故か自動車ではなく住宅建築に走ることに。おそらく、逸郎が米国遊学で強い感銘を受けたのは、自動車以上に当時アメリカ各地に作られていた、広々とした敷地の新興住宅地であったのかもしれません。 かれが住宅経営に乗り出す地盤はありました。

  • たった数年間だけ存在!南海”本線”の高師浜駅【南海電鉄歴史紀行】

    南海電鉄線、羽衣駅から高師浜線という支線が南へと伸びています。全長約1.5km。乗ってもたったの5~6分。聞くところによると、日一短い支線だそうです。 今は2両編成ですが、私が幼いころは1両の電車がのんびりと往復しており、かわいい電車やなと幼心に思ったものです。 高師浜は、現在こそふつうの住宅が立ち並ぶ静かな土地ですが、そもそもは高級住宅街、つまり「ふつうじゃない」住宅のために大正時代に開発された土地でした。 土地会社は南海直営ではなく地元素封家たちが金を出し合って設立したデベロッパーなので、土地とお金出すから鉄道敷いて~とお願いしたのでしょう。 大正7年(1918)に羽衣~伽羅橋駅間が、翌年に高師浜まで路線が延び全線開通しています。 高師浜線の歴史はイコール高石の住宅開発の歴史、鉄道が敷かれているのは、何らかの理由があるのです。 今では信じられませんが、戦前の高師浜線は全列車難波から

  • 浜寺俘虜収容所-日露戦争最大のロシア兵捕虜収容所

    世界の下馬評は1000人中999人がロシア勝利を信じて疑わなかったのですが、蓋を開けてみれば日の勝利。 死傷者数だけを見ると痛み分けに等しいですが、ロシアの南下を止め、南満洲からロシアの脅威を排除するという戦争目的は達成。その上に南樺太までいただいたので、日の勝利には間違いない。 戦争をすると、当然ながら捕虜が発生します。 捕虜は国内に移送され収容所に収容されたのですが、日露戦争におけるロシア兵の捕虜収容所は、愛媛県の松山や千葉県の習志野など全国29か所に点在していました。 特に松山は、 ・最初に作られた収容所 ・収容者が教育レベルの高い将校が中心で、文字で記録を残した(史料が多い) ・郷土史家や地元大学の熱心な研究 ・司馬遼太郎『坂の上の雲』の影響 浜寺俘虜収容所ができるまで大阪には、天下茶屋に小規模の収容所が存在していました。 明治37年(1904)10月に陸軍予備病院天下茶屋分院

  • 海道畑停留所-阪堺電車に残る廃駅

    海道畑駅 南海電鉄浜寺公園駅から徒歩約2分くらいの場所に、阪堺電気軌道の浜寺駅前停留場があります。阪堺電気軌道など正式名称で呼ぶ必要もなく、地元では「チンチン電車」で通用します。 浜寺の次の駅は船尾なのですが、その駅間距離が「チンチン電車」の割にはやけに長い…その間に駅でもあったのか!?と思える距離感ですが、事実その間にかつては「海道畑」という駅が存在していました。「かいどうばたけ」ではなく、「かいどうばた」と読んだそうです。 浜寺駅前を出発した電車は、南海線を跨ぐためにいったん高架となります。南海とのガードを上りきったかどうかという場所に、海道畑駅は存在していました。 海道畑駅の開業時期ははっきりしません。 南海や阪堺の資料をいくら見ても、どこにも書かれていません。ネットでは新阪堺線との連絡用に作られたという情報が流れています。その真偽は不明ながら、少なくてもわかることは… 昭和3年(

  • 半藤一利先生を悼む - やね日記

    半藤一利先生が今月亡くなられました。 私が半藤先生を知ったのは、あの「日のいちばん長い日 運命の八月十五日」でした。 以前にこの日記でも書きましたが、私の祖父は終戦5日前の8月10日にフィリピンのブラカン州で戦死していて、子供の頃はなぜもっと早く終戦を迎えられなかったのかとずっと思っていました。 しかし、半藤先生の作品を読み、太平洋戦争を終わらせるのがいかに困難だったかを知ることで、むしろ、無事に終戦を迎えることが出来たことの方が貴重だったのだと思うようになりました。 冒頭の文春の半藤先生へのインタビューを読んで感じたのは、これまでの半藤先生の作品でも感じたことですが、人はそれぞれの時代の流れに翻弄されやすいからこそ、その時々の時代を真正面から見据え、冷静な対応を図ろうとする指導者や政治家、思想家などの存在が大切だということでした。 そして、これらの人々は私が個人的にも尊敬している人々で

    半藤一利先生を悼む - やね日記
  • 新阪堺線(大阪市電阪堺線)と幻の浜寺駅

    そこには、かつての繁栄ぶりを示す、もう一つ、いや二つの「駅」が存在していました。 地元からも忘れられ、見向きもされていない駅のお話を2回シリーズで。今回は、南海・阪堺ともう一つ、浜寺まで走っていた「もう一つの阪堺」の話を。 新阪堺現在の浜寺公園近辺を走っている鉄道は、南海電鉄と阪堺電気軌道の2のみです。が、昭和初期にはもう一走っていました。それが俗に「新阪堺」と呼ばれた鉄道です。 短命すぎて歴史のごみの山にうずもれていた感があるこの鉄道、正式名称は「阪堺電鉄」。しかし、現在残る「阪堺電気軌道」とは何の関係もありません。 この阪堺電鉄、路面電車という形態も「阪堺」という名称も、先輩格の「阪堺電気軌道」(当時は南海阪堺線)と非常に紛らわしいため、周囲は「新阪堺」と呼んでいました。 こういう経緯があってややこしいので、以下阪堺電鉄は「新阪堺」、阪堺電気軌道は「現阪堺」に統一します。 新阪堺は

  • 半藤一利さん死去-歴史探偵を偲ぶ

    2021年(令和3)1月12日、半藤一利さんが亡くなりました。 (写真:時事通信より) 享年90歳、まだ若いのに…なんて言えない年齢であり、結果的には大往生ではありますが、惜しい人を亡くした感は強いです。ご冥福をお祈り致します。 半藤氏と言えば昭和史。私は司馬遼太郎の「私には昭和史は書けない。次の世代に託す」という言葉を胸に昭和史(特に戦前史)をライフワークにしていますが、特に先生というものを持たない独学の身である私にとって、半藤氏は師範のような感じの存在でした。なので、半藤氏の死は師匠を亡くしたに等しい。 歴史学者でも歴史家でもない「歴史探偵」という立場で、自由にかつ辛辣に、旧制中学生の悪ガキで止まったかのように、時には海軍の提督に向かい「あんたそれでも男か帝国軍人かっ!」と怒鳴ってまで昭和史に向き合った姿は、私にとって指針でもありました。歴史家として年取るならこういう感じが良いなと。

  • 南海電鉄浜寺公園駅-幻の5番線【南海電鉄歴史紀行】

    南海線の浜寺公園駅は、大阪府堺市にある南海線の駅の一つです。 地元民にとっては「浜寺公園」と聞くと何かえも言われぬお上品な香りがし、お年寄りの世代には潮の香りすらただよってきそうな、少し特別感がある駅でもあります。 南北朝時代の後村上天皇の時代、現在の高石市にあった大雄寺というお寺がありました。かなり大きなお寺だったそうですが、吉野にあった日雄寺が「山の寺」と呼ばれたのに対し、大雄寺が「濱の寺」と呼ばれたことから、浜寺という名前が起こったと伝えられています。 浜寺の海岸は、古くから白砂青松の名勝の地として全国に知られ、夏目漱石も、明治42~45年の間だそうですが、ここを訪れ作品にも反映させています。 明治39年(1906)、大阪毎日新聞社がここを海水浴場として開発を始めました。遠浅の海岸は海水浴にはうってつけの環境で、夏の暑い時期になると、ここをめがけて関西中から人が訪れたリゾート地で

  • あなたは何問読めるかな!?大阪の難読地名

    という、いわゆる「難読地名」がいたるところに存在しています。 関西以外では、アイヌ語の当て字の北海道などはさておき、難読地名は例外的に存在するのみ、その都度覚えていけばいいと思います。が、大阪は読めないと日常生活に支障をきたすほどそこら中にあり、それこそ「掃いて捨てるほど」という言葉にふさわしい。 ところで、非関西人からのこんな質問をよく目にします。 答えは単純明快、そんなことはありません。 大阪人は自分の方言を大切にする分、相手の方言も尊重します。だから標準語でも九州弁でも全く問題ありません。むしろ各地の方言でしゃべった方が、こいつ地元を大切にしとると高評価。 経験上、関東(ガチの江戸っ子は除く)の 圧の方が絶対に強い。そしてうわべはそんなことありませんと装っているので、余計に質が悪い。 中途半端な大阪弁をしゃべってひんしゅくを買うより、そこら中にある難読地名の読み方を覚えることと、相手

    あなたは何問読めるかな!?大阪の難読地名