casemaestro89のブックマーク (2,104)

  • 鳩の街赤線街(東京都墨田区)|おいらんだ国酔夢譚|

    敗戦後の東京、占領軍として日に君臨したGHQは、良くも悪くも日に数々の改革を実施しました。大地主制度や財閥など、解体・廃止したものも多かったのですが、その中の一つに「公娼の廃止」がありました。公娼って何ぞや?と説明するのも面倒臭いので、ここでは「遊郭」と理解していただいて結構です。 そう説明すると、遊里史をかじった人はこう疑問符がつくはず。 そう、戦後には「赤線」があったはずだと。 しかし、厳密に言うと赤線は遊郭の延長ではあるけれども、公娼ではありません。赤線は警察などの公的機関は「黙認」していたけれども、認めていたわけではない。対して遊郭は「公認」。だから”公”娼なのです。黙認と公認は、天と地の開きがあります。 研究者によっては、 と主張する人もいますが、私個人としての考えは、赤線は「私娼窟」としています。 昭和20年代〜30年代前半の東京には、赤線だけでも10ヶ所以上が存在し、夜な

  • 八王子田町遊郭(東京都八王子市)|おいらんだ国酔夢譚|

    一抹どころか五抹くらいの不安を抱えつつ、八王子駅から徒歩15分ほどの場所にあるという、ある遊里へ。 今日は、東京の西の端、八王子にあった遊郭のお話。 八王子田町遊廓の歴史八王子は江戸時代に整備された甲州街道の宿場町として栄えました。横山宿・八日市宿・八幡宿など15の宿場に分かれており、その中でも横山宿と八日市宿が宿場の中心でした。 大名とかの身分が高い人が使う「陣」と、庶民が使う「旅籠」と宿が分かれていましたが、旅籠には「飯盛女」、事実上の娼婦がワンセットでついてくるのが相場。「飯盛女」は数十人~百人以上はいただろうと推定できます。 ちなみに、江戸時代の法によると、「『飯盛女』は旅籠一軒につき二人まで」「衣類は木綿に限る(派手に着飾るなということ)」となっており、その条件からはみ出たら「隠売女」つまりモグリ売春婦として捕まり、吉原行きになることもありました。 時は明治に入り、宿場町の旅籠

  • 盛岡八幡宮の米内光政像と昭和史

    盛岡八幡宮の米内光政像盛岡には、町の鎮守のために建てられた盛岡八幡宮があります。南部藩が盛岡に移った16世紀末に作られて以降300年間、盛岡の総鎮守として今日も町を見守っています。 隣には明治時代に護国神社も建てられ、明治天皇の像が盛岡の安寧を見守っています。 八幡宮にはもう一人、ある人の銅像が建っています。 そ八幡宮の南端、崇敬殿の前には、岩手が生んだ海軍軍人、米内光政の銅像が立っています。 昭和35年(1960)に建立された像は、軍服ではなくスーツ姿となっています。大将にまでなった海軍軍人なので、来銅像は軍服姿であるべきでしょう。 しかし、まだ戦争の傷が癒えない頃で軍隊アレルギーが強い頃だったのと、生前の米内さんを知る友人や家族が話し合った結果、この姿になりました。 建立の言い出しっぺは、兵学校同期だった高橋三吉大将。 派閥抗争に明け暮れる陸軍に対し、帝国海軍は明治大正を通して比較的

    盛岡八幡宮の米内光政像と昭和史
  • 『鬼滅の刃 遊郭編』の歴史知識 第二章ー吉原大門

    吉原大門の歴史一般的に吉原吉原と呼ばれている吉原ですが、遊廓としての吉原の正式名称は「新吉原」です。 勘の鋭い人は、ここでピンときます。 ご名答、「新吉原」があれば「旧吉原」があったのです。 場所は東京日人形町。400年前、ここに「旧吉原」が存在していました。 ここにも「大門」があり、400年経った現在でも「大門通り」と呼ばれています。日歴史が、まるで講談の続き話のように脈々と受け継がれていることが、この一件でもわかります。 なお、旧吉原から新吉原へ移転されたのは明暦3年(1657)。4代将軍家綱のころです。 「新吉原」の大門の現在は、こうなっています。ここにかつて、吉原の大門が建てられていました。ちなみに、別の遊郭は「だいもん」と読むところもありますが、吉原は「だいもん」ではなく「おおもん」です。 写真で確認できる、もっとも古い吉原大門は明治初期のもの。その姿はけっこうショボい木

  • 大和郡山西岡町の謎の建物と、幻の歌劇団『日本少女歌劇座』

    大和郡山市ー西岡町にある謎の建物大和郡山には、東岡町があれば西岡町もあります。 東岡町からすぐ西の方向、近鉄橿原線を跨いだ向かい側に西岡町はあります。 郡山の郷土史をめくると、江戸時代は同じ「岡町」だったのが次第に「西」と「東」に分かれたようです。おそらく鉄道で町を真っ二つに分けられたからか!? 西岡町は色街となんの関係もありませんが、江戸~明治時代の面影を残す静かな住宅街となっています。 そこに、ある特徴的な家があります。 和風の家の横の洋風建築。和ばかりの西岡町の建物にあって、唯一の「超」洋風建築なので、非常に目立ちます。近鉄電車からも見えるので、車窓で目に入り気になっている人もいると思います。 水捌け用の配管が青銅製、外観はコンクリ製だと思われるので、大正中期~昭和初期の築かと推定しています。 この建物のいちばんの特徴は、丸窓に装飾された孔雀が羽を広げた姿のステンドグラス。これも、今

  • 『鬼滅の刃 遊郭編』の歴史知識 第一章ー張見世

    鬼滅の刃に描かれた吉原の風景①ー仲之町通り『鬼滅の刃 遊郭編』第二話には、吉原の象徴として大通りが登場します。 台詞にも「吉原」と言っているので、ここは吉原の大通り「仲之町通り」です。 夜の帳がおりた頃に人がどことなく集まり、通りの真ん中に植えられた季節ごとの木々は、吉原の表の面を派手に演出していました。吉原ってこんなんやったんやろなーと想像力を豊富にさせるきれいな描写です。 人は夜の明かりのもとに、夏虫のように集まり、それは盆も正月もなかったといいます。 『鬼滅の刃』の時代設定である大正時代を例にとると、大正5年(1916)の吉原の遊客数は1,256,813人1。1日あたり約3,443人が遊んだという計算で、「冷やかし」など実際に遊んでいない人は数に入れていません。推定ですが、純粋な人出はこの3〜5倍はいたのではないかと。 なお、明治後期〜大正期、つまり『鬼滅の刃』の時代設定の「仲之町通

  • 新吉原遊郭の歴史(東京都台東区)|おいらんだ国酔夢譚|

    「吉原」という名前は、遊郭や赤線に興味がない人でも一回くらいはどこかで名前を聞いたことあるくらい有名です。遊郭とくれば吉原、吉原と言えば遊郭と言ってもいい遊郭の代名詞でもある吉原。「遊郭・赤線跡をゆく」を書き続けてン年、ついに総山の吉原に突入です。 しかし、吉原に関してはそれこそ詳細に書かれた書物だけでも星の数ほど存在している上に、それを踏まえて書き出すと1万文字どころか10万文字でも説明がつかない。すべて書き尽くすのに1年くらい、仮に書いたとしても読む方も1週間くらいかかりそうなので(笑)、誰でもわかるようサラッと説明していきたいと思います。 吉原の遊郭史吉原の歴史は、はるか17世紀の江戸時代はじめにさかのぼります。 今の東京に「江戸」の町が出来てまだ間もない頃、庄司甚右衛門という人物がいました。元々は小田原の北条氏に仕えていたと伝えられ、元々は北条の乱波、つまり北条氏に仕えた風魔一族

  • 米内光政提督が残した言葉

    米内光政という名前は、どこかで聞いたことがあるかもしれません。しかし、岩手県民や近代史好き、海軍好きでない限り、 となる人の方が多いかと。「こめうち」ではありません、「よない」です。 日歴史に深く関わり、総理大臣にまでなったにも関わらず、その名前は歴史の授業でもよっぽどのことがない限り出てくることはありません。 昔からの歴史好きの私も、確かに名前は知ってるけれども、よく考えたら一体何した人なんやろ?とよく知ることはありませんでした。 しかし、を読むにつれ、知れば知るほど米内光政という人間が面白く感じ始め、現在では尊敬する人の一人になっています。「米澤光司」という名前も名ではなく、名に米内さんの姓名の一文字ずつをいただいたもの。現在はペンネームとして使用中であります。 なお、編は敬意をこめて「米内さん」という呼び名に統一します。 米内さんはどんな人か。 それを語りだすと、当にキ

  • 武蔵新田の赤線(東京都大田区)|おいらんだ国酔夢譚|

    今回の主役である東京都大田区武蔵新田は、東急多摩川線が良い意味で都会のローカル線のようにのんびりした路線のせいもあってか、武蔵新田は東京都、それも23区内のはずなのに都会の喧騒から離れた下町です。下町だけに、庶民的で人間のにおいがムンムンと立ちこめ、人気(ひとけ)ゼロの大自然より人間臭い町中が好きな私はホッとする場所でもあります。 昭和20年代、そんな下町に赤線が存在していました。こんなとこに赤線があったのかと、この地域の現在を知っている人ほどいぶかしんでしまいそうですが、当にあったのです。 武蔵新田の前身は、羽田空港近くにあった穴守の遊里でした。 その穴守も、ルーツをたどってみると深川にあった洲崎遊郭。洲崎は昭和18年(1943)、海軍の命令で妓楼が軍需工場の工員の寮に転用され解散、一部の業者が穴守に移転し新遊里を形成しました。が、そこも羽田飛行場の拡張で立ち退き命令をらい、その代わ

  • 洲崎遊郭(東京都江東区)|おいらんだ国酔夢譚|

    東京都江東区東陽。この地名にピンと来なくても、「洲崎」と聞いたらピンとくる人もいることでしょう。現在、その地名は消えてしまったのですが、その洲崎には、規模はかの吉原に負けず劣らずな遊廓があったことは、今や昔。 編は、そんな「永遠のナンバー2」の宿命を背負わされた遊郭、洲崎のお話。 洲崎遊郭の母ー根津遊郭洲崎の遊郭としての歴史は、江戸時代までさかのぼることができます。 近世の江戸において、「遊郭」というのは吉原の代名詞でした。他にも江戸のあちこちに遊里は存在していたのですが、他は近代以降の概念で言えば私娼窟にあたる「岡場所」と呼ばれ、吉原や他の公許の遊里とは明確に区別されていました。 その岡場所の一つに、根津がありました。現在の東京大学農学部の隣にある根津神社周辺にあった遊里で、明治以降は貸座敷指定地に定められ、吉原に次ぐ規模でした。 根津神社には、お参りすると女子力がアップするという「乙

  • 浜口雄幸首相遭難事件と東京駅|昭和史その日その時|

    東京の鉄道の玄関口、いや日の鉄道駅の象徴といっても過言ではない東京駅。近年、創建当初の姿に復元されてよりいっそう威厳を増した感があります。 大正3年(1914)に設置された東京駅は100年以上の歴史を刻んできましたが、その中でも「歴史的な瞬間」を刻んだ舞台でもあります。特に、忘れがちですが日の首相が二人も、ここ東京駅で襲撃されています。 第19代の原敬と、第28代の浜口雄幸です。今回は、昭和史の「その時歴史が動いた」ということで、浜口の襲撃事件を取り上げようと思います。 浜口雄幸という人第28代総理大臣、浜口雄幸。 高知県に生まれ、東京帝大法学部1を好成績で卒業します。同窓生に、のちに外相として浜口を支える幣原喜重郎、内務官僚の伊沢多喜男2などがいます。 卒業後は大蔵省に入省するものの、左遷同然の地方どさ回りを続けましたが、のちに実力を認められ中央に復帰。後藤新平の勧めで大蔵省を辞め逓

  • 建部大社(滋賀県大津市)と幻の千円札

    以前住んでいた滋賀県某所の近くに、建部大社という神社がありました。 「ありました」といっても現存しており私の方が既にいないのですが、この神社、境内がかなり広く、神社素人の私でもこれはタダの神社ではないなと思わせるような、不思議な威厳を発していました。 この神社は、近江国の一之宮としての由緒がある古い神社で、日武尊をご祭神としています。天武天皇の御世である白鳳4年(675)、近江国府があった勢多の地に御霊を移し、この地に神社が建てられたとされています。 また、平治の乱で源頼朝が京から伊豆へ流された際の途中でこの神社に立ち寄り、源氏再興を誓ったことが『平治物語』に記されています。 こんな由緒正しき神社と昭和史、そんなの何の関係もなさそうなミスマッチっぷりです。が、実は終戦後の混乱に絡んだある関わりがあったのです。 幻の千円札「戦前」とはいつまでなのか?はけっこう議論があるのですが、私なりの定

  • 俳優松田優作と赤線の足跡| おいらんだ国酔夢譚 番外編|

    東西南北の人が集まり通っていた下関には、その数だけ人間ドラマがあると言っても過言ではありません。 遊郭に通う人たちも、何も現地の人だけとは限りません。下関を通過(トランジット)するだけながら、次の移動待ちの間にフラリと赤いランプに導かれて女の園に吸い込まれる…。そんな男達は星の数ほどいたはずです。 今回は、そんな男と女の色情を見て育った、ある男の生涯を追ってみます。 下関には、以前紹介した新地や稲荷町・裏町、豊前田の他にも遊郭が存在していました。 その名は今浦町。今でもそのまま地名が残っているのですが、編の主人公は終戦直後の男と女の性が渦巻く、丘の上にあるこの町で生まれました。 父親は長崎からやってきた子持ちの男、女は今浦町で質屋を営む戦争未亡人。普通に暮らしていればまず交わることがない二人は不倫の関係になって結ばれ、やがて女は男の子どもを身ごもり、出産します。 時は昭和24年(19

  • 近代建築これくしょんー小原写真館・平船精肉店など(岩手県盛岡市)

    先の戦争での空襲を受けていない都市は、明治時代から昭和初期の、戦前に建てられたいわゆる近代建築が多く残っています。 盛岡は空襲を受けた都市の一つではあるのですが、爆弾を落とされた場所が駅周辺と限定的だったために、市街地は特に被害もなく古い町並みが残っています。 それだけに現存する近代建築も多めですが、今回はその中でも見た者を釘付けにするような一つを。 小原写真館盛岡の古くからのショッピングスポットとして現在でも商店街がある肴町に、その建物はあります。 店名が書かれた飾りが途中で脱落していますが、「小原寫眞館」と読めます。 いつ建てられたかは不明ですが、おそらく昭和10年以降ではないかと推定できます。その理由は後述します。 盛岡の図書館に残っていた住宅地図によると、昭和37年(1962)に「白陽写真店」として掲載されています。「小原写真店」ではないのが不思議です。ただの推定ですが、元の「小原

    近代建築これくしょんー小原写真館・平船精肉店など(岩手県盛岡市)
  • 南海の新聞電車と女給電車【南海電鉄歴史紀行】

    「女給」という響きには、どこか昭和を感じます。 この言葉が生まれたのは、昭和ではなく大正時代のようで、宇野浩二の『苦の世界』(1918‐21)には「いっそのことカフエエの女給にならうかしら」という文章があります。 それが全国区になったのは大正の終わりから。昭和に入り「カフェー」という新しく生まれた風俗産業と共に、「女給」も伝播したのでしょう。カフェーとは、横に「女給」がついてお酒を飲んで語らう場所、つまり今のキャバレーのようなものでした。 女給とくればカフェー。カフェーとくれば女給。彼女らは基無給、客からのチップだけで生活していました。チップイコール生活費、チップ欲しさにだんだんと過激なサービスをするようになり、次第に陰で売春行為もするようになったと言います。 そして昭和はじめの不景気による先が見えないドンヨリ感もあり、カフェーは「エロ・グロ・ナンセンス」の「エロ」を担う時代の寵児となり

    南海の新聞電車と女給電車【南海電鉄歴史紀行】
  • アタマコンクリ-台湾に残る日本語

    アタマコンクリ台湾に残った日語は、日統治時代を経験した日語話者の減少で年々と少なくなっているが、それでも根強く残っている単語は多い。 その中でも、一風変わった「日語」を今回紹介する。それが今回の主役、「アタマコンクリ」である。 台湾のTVやラジオを聞いていると、しょっちゅう聞くわけではないが、時折耳にする。実際に聞くと明らかに日語なのだが、なんとなく意味がわかるようなわからないような、少し不思議な香りがする言葉である。 「アタマ」は「頭」ということは、難なくわかる。では「コンクリ」は何か。これは「コンクリート」のことで、今でも業界ではコンクリートの略称として使われる。私個人も「コンクリ」と言うこともある。 「アタマコンクリ」を日語で書くと、「頭コンクリ」。 頭がコンクリートのような奴→頭がコンクリートのように固いとなり、「頭が固い、融通の利かない人」という意味となる。日語でい

  • 福島一本杉遊郭(福島県福島市)|おいらんだ国酔夢譚|

    福島の遊郭史そもそも福島という町は、城下町と同時に奥州街道沿いの宿場町として栄えました。街道沿いにある北町(北裡)は旅籠が集まる通りとして賑わいをみせましたが、その中には飯盛女を抱えた遊女屋兼業もあり、大人の盛り場としての面もあったのは、他の宿場町と同様です。 近代に入って以降も状況は変わらず、遊郭・花街・宿屋が混在する形になっていました。明治12年(1879)の福島の貸座敷数は18軒、娼妓数は114人という記録が残っています1。 明治35年(1902)、町の中心にあった遊郭は、当時の福島町長の決断で郊外の一杉に移ることになりました。遊郭が一杉に移ったのは明治34年という資料もありますが、ここは郷土史に従います。 その時移った遊女屋は、渡利楼、湯野屋、花野屋、高木屋、丸井楼、大野屋、吉野屋、吾楼、常盤楼、えびす屋の10軒。えびす屋はすぐ廃業したそうなので、実質9軒といったところか。移

  • 神戸駅近くで発見された昭和の遺物-『貯蓄報国』と戦争

    と何かピンとくるものがあるかもしれません。歴史がわかると「武運長久」でお察しですが、わからないとオリンピックの標語か?とボケ回答が来るかもしれません。 さて、この標語は一体何なのか。 「貯蓄報国」とは「貯金報国」は間違いで、正しくは「貯蓄報国」。書き主め、さては書き間違えたな。 といっても、意味は同じなので大目に見ておきます。 昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋での謎の発砲から始まった支那事変(日中戦争)は、同年12月の首都南京陥落でカタがつくかと思いきや、中国側も首都を漢口(現在の武漢の一部)に移し徹底抗戦の構えを見せ、長期化の様相を呈してきました。 戦争はタダではできません。当然お金がかかる。日軍も短期戦の目論見が外れ、「聖戦完徹」のために戦費が必要となってきました。 そのため、政府は国民に貯蓄を奨励(・・)します。昭和13年(1938)4月16日には大蔵省に「国民貯金

    神戸駅近くで発見された昭和の遺物-『貯蓄報国』と戦争
  • 酒田新地遊郭(山形県酒田市)|おいらんだ国酔夢譚|

    山形県庄内地方は東北屈指の米どころとして有名ですが、その中心酒田は北前船の寄港地、そして最上川の河口にあり川沿いの名産が集まる集積地として、江戸から明治にかけ大いに栄えました。戦後の農地改革まで日一の地主だった間家も酒田にありました。 人が集まるところ遊里あり。酒田も当然その例外に漏れず、江戸時代から遊里が存在していました。酒田は北前船により京の文化と直結していたところでもあり、遊里も京風味で雅だったことでしょう。 前回の原ゴム工業所の記事で取り上げた「酒田甚句」をもう一度挙げます。 日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野こやの浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか (2番以降略) 『酒田甚句』歌詞にある酒田の地名「今町 船場町 高野の浜」、実はここが江戸時代~明治初期の色街。「酒田三遊処」と称され

  • 原ゴム工業所(山形県酒田市)-酒田に建つ謎の近代建築【近代建築これくしょん】

    山形県北部、庄内平野の港町である酒田。 ここは江戸時代、上方から瀬戸内海を経由してやってきた北前船の主要寄港地で、関西とは縁がある地域でもあります。 関西から見ると、ヘタな外国よりも遠く感じる東北の一地方都市ですが、北前船に乗って上方文化がここへも流入していました。いわば関西と直結していたのです。見方を変えれば、酒田は「東北の京か大阪」とも言えるのではなかろうか。 その片鱗が、江戸時代の酒田の繁盛っぷりを歌った地元の民謡、「酒田甚句」に残されています。 酒田甚句日和山 沖に飛島 朝日に白帆 月もうかるる最上川 船はどんどんえらい景気 今町 船場町 高野(こや)の浜 毎晩お客はどんどんしゃんしゃん しゃん酒田はよい港繁昌じゃおまへんか 海原や 仰ぐ鳥海 あの峰高し 間(あい)を流るる最上川 船はどんどんえらい繁昌 さすが酒田は大港 千石万石横付けだんよ ホンマに酒田はよい港 繁昌じゃおまへん

    原ゴム工業所(山形県酒田市)-酒田に建つ謎の近代建築【近代建築これくしょん】