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浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?
北近江(滋賀県)の大名・浅井長政は織田信長と同盟を結び、京への上洛に協力しました。 しかし信長が越... 北近江(滋賀県)の大名・浅井長政は織田信長と同盟を結び、京への上洛に協力しました。 しかし信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めたことをきっかけに決裂し、裏切って敵に回っています。 そして石山本願寺や武田信玄と手を結んで包囲網を形成し、信長を大いに苦しめました。 やがて勢力を盛り返した信長に封じ込まれてゆき、最後には朝倉義景とともに敗れ、滅亡しています。 この文章では、長政はどうして信長を裏切り、滅亡を迎えることになったのかについて、書いてみます。 【浅井長政の肖像画】 浅井氏は六角氏に従属していた長政は1545年に北近江の領主・浅井久政の嫡男として誕生しました。 この頃の浅井氏は弱体化しており、南近江を支配する六角義賢に従属することで、その勢力を保っていました。 このために長政は若い頃、義賢から一字を拝領して賢政(かたまさ)と名のっています。 このあたりは今川義元に従属し、元康と名のってい
2017/01/30 リンク